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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「言っときますがねぇ、お嬢さん。俺だって生きてるんですぜ、それに家に帰りゃア、年取ったお袋、女房から五人のガキどもが待ってるんだよ。俺は家族を食わせてやらなきゃならねえ。いちいち綺麗事を言っていたら、俺の方がその娘っ子より先に家族と心中しなきゃならなくなるんだよ!」
 男が無造作に手を離したため、女の子は勢いよく地面に落下した。痛みのためか、衝撃のあまりか、女の子が声を上げて泣き出した。
「煩せェっ。泣きてえのは、こちらだよ。このお優しいお嬢さまは俺が理由(わけ)もなく子どもに当たり散らす極悪人のように言うが、お前にこう再々商売物を持ってかれちまっちゃア、俺の方が首をくくる羽目になっちまう」
 少女が袖から薄紅色のチュモニを取り出した。八百屋に向けて、そっと差し出す。
「これで私があの子が盗んだ林檎を買うということにはできませんか?」
 彼女は良いと思って言ったに相違ないが、その科白は八百屋の矜持をいたく傷つけたようだ。
 彼が声を震わせて怒鳴った。
「馬鹿にするない! 手前の娘よりまだ小さな子どもから施しを受けるほどまだ落ちぶれちゃいねえや」
 男が両脇に垂らしている拳を握りしめている。眼前の生意気な少女を殴りつけたい衝動と闘っているのは明らかだ。
「なあ、お嬢さん、あんたのように生まれたときから何もかもに恵まれている子には想像もつかねえようなことがこの世には溢れてるんだぜ。その日、食うものに困ったことはあるか? 働き通しに働いても、満足に飯も食えねえ人間がいるなんて考えたことがあるか? 俺が言いてえのは」
 そこで彼は歯を食いしばった。握りしめた拳の関節が白く浮き上がる。それほどに力を込めているのが知れた。
「俺が言いてえのは、食べる物もろくにない暮らしを知らねえお嬢さんに、俺ら庶民内のことをとやかく言われたくないってことさ」
 少女はしばらく黙り込んでいた。うつむいた視線は地面に向いている。
 八百屋が疲れ切った表情で言った。
「俺が今、あんたをどれだけ殴りつけてえか判るか? 情けねえ話だが、幼い女の子を殴る自分を嫌な野郎だと思う以上に、あんたの両親に俺ら一家がどのような目に遭わされるのか心配だから、俺はあんたを殴りつけられねえ。可愛いあんたに青アザができれば、あんたの両親は血相変えるだろう。俺のようなしがねえ露天商がここで商いをできなくするなんて、あんたの父親は朝飯前だろうからよ」
 少女かつと顔を上げた。子どもながらに凜とした、美しい表情だ。まだ十歳にも満たないでこの美しさであれば、成長した暁には男を惑わすほどの美貌になるだろう。
 木登りと虫集めにしか興味がないチュソンでさえ、少女の並外れた美しさには眼を奪われっ放しだ。
 彼女は静かな声音で問いかけた。
「確かに、あなたの言う通りですね。あなたはこの子が盗みをしたのは初めてではなく、何度目かだと言われました。恐らく、最初はあなたもこの子の事情を考えて、大目に見たのでしょう。でも、あなたが言うように、事情があるのはこの子だけではない。当然ながら、あなたにも事情があります。私は一方の目線でしか物事を見ていませんでした。ーとても難しい問題だと思います。この子の側に立てば、あなたは幼い子を無慈悲にぶつ悪人になるけれど、あなたの立場になれば、この子は見境なく他人のものを盗む罪人になる」
少女は小さく息を吸い込み、頭をペコリと下げた。
「結果、私はお金ですべてを解決しようとし、あなたの誇りを傷つけてしまった。本当に、申し訳ありませんでした」
 男が興醒めな顔で言った。
「判ったんなら良い。お前もとっとと失せろ! だが、今度、俺の店から盗みやがったら、そのときは容赦なく捕盗庁に突き出してやるからな」
 林檎を盗んだ女の子は、まだしゃくり上げている。
「とっとと失せろってえのが聞こえねえのか」
 破(わ)れ鐘のような声が轟き、女の子はビクッと肩を揺らし、いっそう声を上げて泣いた。
 少女は自分とさほど年の違わない女の子を抱き寄せ、あやすように背をさする。 
 少女はまたも八百屋を見た。
「どうすれば、ご主人(オルシン)の怒りを鎮めることができますか?」
 八百屋の口がへの字になった。元々人は悪くはないのであろうが、予想外のさんざんな展開に彼も意固地になってしまったのだろう。
 彼が顎をしゃくった。
「そこまで言うなら、土下座してみな」
 八百屋の一言に、遠巻きに見物する野次馬たちが一斉にどよめいた。朝鮮は徹底した身分社会だ。両班家に生まれた者がたとえ年上であろうが、八百屋に膝を突くなぞ聞いた試しがない。
 果たして、この正義感の強い美少女がどんな反応を示すか。見物人たちは並々ならぬ好奇心を剥き出しにして、なりゆきを見守っている。
 少女がその場に座り込んだ。端然と座り、真っすぐに八百屋を見上げる。
「ごめんなさい」
 頭を下げるのに、八百屋は呆れたように天を仰いだ。
 しばらく異様なほどの静けさがその場に満ちた。誰も声を発しない。何かしようものなら、辛うじて保たれている均衡が一瞬で崩れ落ちてしまいそうに思えたからだ。
 八百屋はしばらく少女を睨みつけていたかと思うと、フッと表情を緩めた。つかつかと彼女の傍らに歩いてくる。一体何事が起こるかと、その場の緊張感はますます高まった。
 誰もがしわぶき一つせず、固唾を呑む。
 もしや、その生意気ぶりに堪忍袋の緒を切った男が今度こそ少女に殴りかかるのか?
 中には早くも残酷な光景から顔を背けようとする女もいる。
 だが、心配していたような事態は何ら起こらなかった。八百屋は少女に近づくと、手を差し出した。
「何もあんたがそこまでしなくても良いだろう。まあ、土下座しろと言ったのは、そもそも俺だけどよ」
 少女は男の手に掴まって立ち上がる。八百屋が真顔で言った。
「今後は無闇に危険に首を突っ込むなよ、お嬢さん。相手が俺だから良かったが、質の悪い輩だったら、厄介なことになりかねないからな。何しろ、あんたほどの別嬪は、大人の女にもそうそういやしねえ」
 少女が真面目な顔で言った。
「また、あなたの気持ちを傷つけてしまうかもしれませんが、林檎のお代を払わせては頂けませんか?」
 八百屋が破顔した。
「今日のところは、あんたの勇気への礼代わりだ。お嬢さんのように俺ら庶民のために土下座までする人がまだ両班の中にもいるんだって知っただけで、あんたに礼を言いたい気分さ」
 感心しきった面持ちで言う。
「ところで、子どもの癖にやたら度胸のある娘っこだな、歳は幾つだ?」
 少女は、はきはきと応えた。
「八歳です」
「こいつはまた、愕ェた」
 八百屋はおどけた仕草で頭髪が薄くなりかけ、やや広くなった額をピシャリと叩いた。更に見物人たちに向かい、わめき立てた。
「おいおい、何を貴様ら、さっきから木偶みたいに突っ立って見やがってるんだ? こんな小さな子どもでさえ、身体を張って赤の他人を助けるんだぜ。それを貴様らはただ口を拭って高みの見物としゃれ込んでたんだろうが。これは見世物じゃねえぞ。とっとと消え失せてくれ」