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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「私を嫌いでないとしたら、理由は何ですか? もしや、あなたは私というより、男という生き物そのものが嫌いなのですか」
 央明はうつむき、頑として顔を上げようとしない。
「私と共にいれば、あなたはこれからもっと多くの苦痛を味わうことになるでしょう。理由はお話しできませんが、そうなる前に離縁して下さい。これが今の私に示せる精一杯の誠意です」
 チュソンが唐突に立ち上がったので、ガタンと椅子音がやけに大きく響き渡った。
 今度は隣席だけでなく、二階にいた他の多くの客たちの視線がチュソンに集まった。
「何が誠意だ。そんなものは体の良い逃げ口上でしかない」
 彼が言うと、央明は彼を黒い瞳で見上げた。漆黒の夜空を宿した瞳は、哀しみに揺れていた。
 彼女を苦しめる自分も、自分の気持ちを理解しようとしない彼女も許せない。
 央明が消え入るような声で言った。
「私の方こそ、あなたにお訊きしたい。何故、私なんですか? 私のような半端者に執着されずとも、あなたほどの方ならば望んで奥方になりたがる娘は数多くいるでしょう」
 そのときのチュソンはあまりに激高していた。ゆえに央明が呟いた?半端者?という箇所に疑問を感じることはなかったのである。
 次の瞬間、チュソンは叫んだ。
「好きなんだ! 惚れていると何度言ったら、私の気持ちを判って貰えるんだ。あなた以外の女は要らない、欲しくない」
 ややあって、彼は死ぬほどの羞恥に悶える羽目になった。クスクスと隣席の令嬢たちは互いをつつき合って笑っている。
 年配の奥方たちの反応は大きく二通りに分かれていた。あたかも自分自身が一世一代の告白をされたように恍惚りと頬を紅くしている婦人もいれば、公衆の場で今時の若い者はなんたる不道徳なと露骨に顔をしかめている婦人もいる。
 だが、大半の女性客の顔には年代を問わず、夢見る少女のような表情が浮かんでいた。
 熱烈な愛の告白はいつの世も女性たちの永遠の憧れなのだ。
 場違いな言動のお陰で、チュソンは今や自分が店中の女性たちの注目を集めていることに気づいた。カッと身体が火照り、身体中の血が沸騰しそうだ。
 羞恥のあまり、目眩すらした。
「とにかく屋敷に帰りましょう」
 またも逃げるように階段を駆け下り、飛ぶような速さで勘定を済ませて茶房を出た。
 帰り道、二人ともに押し黙り、下町に来る道々より更に雰囲気は険悪だった。
 何だか関係を修復しようと躍起になればなるほど、二人の間の溝は余計に深まるばかりのような気がした。
 チュソンはそれ以上、言い争う気力もなく、二人はひたすら黙って屋敷への帰路を辿ったのだった。

 表面上は何事もなく日は過ぎていった。チュソンはひとまず静観の構えを取ることにした。今はまだ二人とも冷静に話し合えるだけの分別はない。央明は相変わらず
ー離縁して下さい。理由は言えません。
 と言うばかりだし、自分は彼女が欲しくて、みっともない欲求不満の猿のようにわめき立てるしか能がなくなっている。
 ほとぼりが覚めるまで、冷却期間を置いた方が懸命だと流石に彼も悟ったのだ。
 楽しみにしていた下町逢瀬(デート)がさんざんな結果に終わり、十数日が過ぎた。
 その日は五月もそろそろ終わりに近かった。藤棚の白藤は流石にもうすべて散ってしまった。来年は来年でまた美しい花で眼を愉しませてくれるだろう。来年の今頃、自分たちはどうなっているだろうか。
 何故か妻のこよなく愛する花の終わりが自分たちの関係を暗示している予感がしてならなかった。
 その間、チュソンと央明はそれぞれの居室で食事を取り、夜も別に眠った。たとえ彼女を抱くことはできなくても、白いやわらかな手を握って朝まで隣で眠れた日々が懐かしかった。
 けれども、今は我慢のときだと自分に言い聞かせつつ、彼は何とか日々をやり過ごしていた。
 その日、チュソンは王宮に参内した。附馬都尉とたいそうな肩書きを持ってはいても、実務はない空疎なものだ。それでも定期的に王宮に出仕する義務だけは課せられている。
 参内して控え場所で適当に時間を潰し、また定時に帰宅する。道から続く石段を登り門をくぐると、使用人たちが忙しげに前庭を行ったり来たりしていた。
 チュソンは違和感を憶えた。屋敷に勤める使用人たちは総勢十数名で、両班の屋敷としてはさほど多いとはいえない。屋敷の規模からすれば、もう少し使用人がいても良いのかもしれない。
 だが、まだ若夫婦二人だけで、手の掛かる子どもがいるわけでもなかった。今のところ、これだけいれば十分だと考えている。
 子ども、子どもか。
 チュソンの整った顔がわずかに緩む。自分は一人っ子として育ったけれど、チュソン自身は子だくさんの家庭に憧れていた。
 兄弟姉妹がいないというのは、淋しいものだ。だからといって側室を置くつもりは毛頭ないが、できれば子は二人以上は儲けたい。
 自分によく似た息子や央明に生き写しの愛らしい娘がこの庭を駆け回る風景がごく自然に浮かび上がり、彼は幸福な気持ちになる。
 だが、やがて容赦ない現実が押し迫り、溜息をついた。
 現状、妻との間に子どもを望むすべはない。自分たちは夫婦とは名ばかりなのだから。
 チュソンの違和感はますます強まった。央明は女中たちを集めては、せっせと化粧術を施している。最近では化粧をしてやるだけではなく、化粧術の伝授を行い始めた。
 女中たちは仕事の合間には集まり、若奥さまの化粧術指南を真剣な表情で受けている。
 結婚してこの屋敷に住み始めてものの三日で、彼女は女中たちの心を見事に掌握した。年配の女中たちの中には夫婦で奉公している者も少なくはない。女房から話を聞いた良人たちもまた若奥さまを慕っていた。
 何より央明は偉ぶったところがない。下男たちにも気さくに声をかけ、仕事を済ませた彼らにねぎらいの言葉を忘れなかった。
ー国王殿下のご息女と聞いて、どれだけ高慢ちきな姫さまかと思っていたけど、うちの若奥さまはほんにお綺麗でお優しくて、天女みたいだよ。
 下女たちが集まって話していたのを、たまたまチュソンも耳にしたことがある。
 無理もない話だ。両班の息女ですら、使用人たちには権高で我が儘放題にふるまうのは当たり前の世の中である。ましてや国王の娘であれば、両班の娘の上をゆく、とんでもない姫君だと使用人たちが警戒していたのも当然といえた。
 そんな我が家であれば、使用人たちは皆、笑顔が絶えないし、和気あいあいとした雰囲気に包まれていた。奥方が寛大なため、時には油を売る使用人たちもいるほどなのだ。しかし、今日は何故か邸内はただならぬ緊張感に満ちている。
 どの使用人も油を売るどころか、忙しそうに立ち働いていた。
 ピリピリとした空気は、常ならないものだ。チュソンは丁度、門の近くを掃き掃除していた若い下女チェリに問うた。いつだったか、央明がこの娘にせっせと化粧をしてやっていたのを思い出し、一人でに顔がほころんでくる。
「何かあったのか、屋敷の雰囲気がいつもとは違うようだ」
 チェリが泣きそうな表情で何か言いたげに口を動かした時、母屋から若い女が走り出てきた。
「令監さま(ヨンガンナーリ)」