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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 そろそろ、ここらできちんとわだかまりは取り除いた方が良いかもしれない。意を決して口を開こうとしたのと、央明が口を開いたのはほぼ時を同じくしていた。
「あの」
「ええと」
 チュソンは言いかけ、フッと笑う。
「あなたからどうぞ」
 央明は一旦うつむき、また顔を上げた。
「靴をー、買って頂き、ありがとうございます。それから、簪まで」
 央明は小首を傾げ、言葉を探すように視線を揺らした。
「ちゃんとお礼も言わないで、ごめんなさい」
 チュソンは笑った。
「私がしたくてやったことだ。気にしなくて良い。そなたこそ、私が一方的に押しつけたのでなければ良いんだが」
 央明の口調が少し強くなった。
「いいえ。とても嬉しかったです。白藤も緑も大好きだから」
 チュソンは頷いた。
「良かった。今日はあなたが気も進まないのに無理に連れ出したのではと心配していたんだ」
 央明はチュソンを強い光を宿した瞳で見た。
「そんなことはありません。本当に来たくないなら、来ません」
「そうか、なら良かった」
 安堵の笑みを浮かべれば、央明もまた微笑した。
「私も安心しました。簪と靴を買って頂いたのに、お礼も言わなかったから。可愛げがないと呆れられたのではないかと心配していました」
 チュソンも笑いながら頷いた。
「では、私たちは互いに同じことを考えてヤキモキしていたわけだ。お相子だね」
「そうですね」
 央明もまた微笑む。
「今、緑が好きだと言ったね」
 え、と、央明が眼をまたたかせる。
 チュソンはまた笑った。
「いつも央明は緑の服を着ていることが多いだろう? だから、そなたは緑が好きなのかなとずっと考えていた。靴屋の内儀が緑の靴を出してきてくれて良かった」
 央明が頷く。チュソンは続けて問うた。
「どうして緑が好きなんだ?」
 央明は少し考え込み、ゆっくりと応えた。
「自分らしくいられるから、でしょうか」
「自分らしくいられる?」
 判るようで判らない言葉に、チュソンは眉根を寄せた。央明も首を傾げた。
「上手く言葉にするのは難しいですけど」
「そうだな、自分では当たり前のことでも、誰かに言葉にして伝えるのが難しいときもある」
 チュソンはそれ以上、詮索する気はなかった。彼は優しい声で言った。
「お茶が冷めてしまう」
 央明が頷き、カップを手に取る。華奢な湯飲みには取っ手がついており、お揃いの受け皿に乗っている。白磁に金色で繊細な模様が飲み口に描かれている。受け皿も同様の模様で縁取られていた。なかなかに洒落た湯飲みだ。
 チュソンもカップを手にし、静かな口調で言った。
「この店は何でも西洋風なのが珍しいと、両班家の令嬢たちの間でも有名だそうだよ」
 まだ央明と王宮で再会する前、本家の従姉妹と顔を合わせる機会があった。跡取りの伯父の娘たちだ。
 その時、大通りに西洋風の洒落た茶房(カフェ)ができたと令嬢たちの間では寄ると触ると評判だという話を聞いた。
 確かに周囲を見回しても、席を埋め尽くしているのは両班家か明らかに富裕層と見える身なりの良い娘たちばかりだ。庶民の娘たちは、なかなか来る機会はない場所だろう。
 従姉妹たちからの受け売り話を披露する間、央明は愉しげに話に聞き入っていた。
 折角、良い雰囲気になりかけたこの時、また余計な話を持ち出して、ぶち壊しにしたくはない。けれども、このままではいけないのも判りすぎるほど判っていた。
 幾ら時間は無限だといっても、自分たちは当たり前ながら不老不死ではない。このまま毎夜、手を繋いで夫婦ごっこをして生涯を送るわけにもゆかないのだ。
 附馬となって出世の道を断念したといえども、家門を継ぐ跡取りは儲けねばならない。いや、両親の期待を裏切ったからこそ、せめて一人息子として家門の存続くらいは役目を果たしたかった。
 央明はチュソンの心など知らぬげに、両手で華奢なカップを包み込み、柑橘茶を味わうように飲んでいる。
「美味しい。これは蜜柑の味でしょうか」
「ええと」
 チュソンは手許の献立表を開き、確認した。
「これは蜜柑と檸檬、茉莉花をブレンドしているそうだよ」
「檸檬?」
「ここに絵が載っている」
 不思議そうな央明に、チュソンは献立表を見せた。
「珍しい果物なんですね、南国産なんだ」
 チュソンは笑って頷き、献立表を閉じた。
 少しく後、やや声調を落として言った。
「お気に入りませんか?」
 央明が訝しげに彼を見た。
「いえ、とても美味しいと思います」
 話が噛み合っていない。もっとも、いきなり話題を変えたのだから当然だろう。
 チュソンは真摯な視線を央明に据えた。
「お茶ではなく、私のことだよ」
 央明の瞳に濃い翳りがよぎった。何故かチュソンは苛立ちに近いものを感じた。
 声が多少荒立たしくなるのはいかんともしがたかった。
「祝言以来、私なりに努力してきたつもりだ。なのに、あなたの態度は少しも変わらない。最初に比べれば、少しは心を開いてくれたのかもしれない。でも、近づいたかと思えば、あなたはまた逃げる。どこまで追いかけても、けして私はあなたに追いつけない。私のどこが気に入らない? あなたが嫌だと思うところがあるなら、直すと約束するよ」
 央明はしばらく沈黙を守っていた。ややあってようよう発した声はかすかに震えていた。
「気に入らないなんて。そんなことはありません」
 チュソンは畳みかけた。
「ならば何故だ? どうして、そなたは私に手も握らせてくれない?」
 我ながら、何とも浅ましい迫り方だとの自覚はあった。でも、チュソンもそろそろ限界に近かった。妻が自分を避ける理由を知らずにいつまでも待たされるのは、男としても情けなく辛い。
 央明は言葉を探しあぐねているようで、顔を上げた拍子に、涙の粒が白い頬をころがり落ちた。
 また、彼女を追い詰めて泣かせてしまった。チュソンは苦い悔恨に囚われた。
 央明は唇を噛みしめているようだ。桜色に美しく塗られた唇に薄く血が滲んでいる。
「噛まないで」
 チュソンは央明の唇に滲んだ血をさっと指で拭い、その指を口で銜えた。咄嗟にやったことで、特に意識したわけではない。
 だが、我に返って赤面した。大勢の人の前で何という破廉恥なふるまいをしてしまったのか。
 眼前の央明は言葉を失っている。
 何人かの客が見ていたらしく、隣席に座った数人の若い娘たちが好奇心も露わに見つめていた。
 実のところ、その娘たちはチュソンと央明が小間物屋で遭遇した令嬢たちだったのだけれど、チュソンに気づくだけのゆとりはなかった。
 央明もまた他人の存在を気に掛ける余裕は失っていたようである。彼女は涙混じりの声で言った。
「だから、結婚前に言ったではありませんか。私を妻にしたら、後悔しますと。私はあの時、確かに申し上げたはずです」
 チュソンは振り絞るように言った。
「訳が判らない! あなたの言う通りだ。新居を見にいった日、あなたは確かに私にそう言った。でも、何故なんだ? あなたはどこから見ても健康そのものの女性だし、結婚を忌避するような原因はないでしょう」
 チュソンはふと声を落とした。