小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

INDEX|40ページ/41ページ|

次のページ前のページ
 

 央明付きのミリョンが息せき切って駆け寄った。若さに似合わず沈着だと思っていたミリョンの狼狽えぶりに驚愕する。
 チュソンは戸惑いを滲ませた。
「ミリョン、そんなに慌てて一体、どうしたというのだ」
 ミリョンは、すっかり動転してしまっている。あまりに急いできたせいか、話そうとして途中で噎せてしまった。
 央明の身に何か起きたのだ。俄に嫌な汗が腋に滲んだ。彼はミリョンが話し出すのをじりじりしながら待った。
 漸く落ち着いたミリョンが涙ながらに訴えた。
「翁主さまが今、大変なことに」
 言葉を濁すので、彼は怒鳴るように言った。
「曖昧な言い方では判らぬ、さっさと申せ!」
 チュソンが使用人に声を荒げることはなかった。ミリョンはビクッと肩を揺らした。
 チュソンは自らを恥じた。央明のこととなると、どうも自分は自制がきかなくなるようだ。
 ミリョンは気を取り直したように言った。
「大奥さまがお見えになっております。屋敷にお入りになるなり、翁主さまのお部屋に直接お越しになり、翁主さまは漢籍をご覧になっていました」
 チュソンは茫然として言った。
「母上が?」
 幾ら義母とはいえ、仮にも元王女の私的空間に前触れもなしにいきなり訪ねるというのは、礼儀にももとる行為だ。
 チュソンは妻の許へと急いだ。道すがら、ミリョンから更に詳細な報告を聞いた。
 だが、話を聞かなくとも、大体の経緯は想像できた。多分、央明が読んでいたのは?中道政要?だろう。男が読むような難しげな政治書を嫁いだばかりの若嫁が読み耽っていた。
 母が怒り狂うのは容易に察せられる。激怒した母は屋敷内の使用人たちを集め、厳しく叱責したという。何しろ、母が訪れた時、下男たちは噂話に興じていたし、女中たちは若奥さまから伝授された化粧術の話に余念がなかった。
 ろくに仕事もせず、無駄話に興じていたところ、母が乗り込んできたというわけだ。母はまずここで愕き呆れ、使用人たちを烈しく詰った。央明をろくに使用人の監督もできない嫁という烙印を押したのだろう。
 次いで嫁の室を訪ねてみれば、嫁は漢籍に夢中だった。
ーこんな体たらくゆえ、けして数も多くはない使用人たちを上手くあしらえないのです!
 母の金切り声が聞こえてきそうで、チュソンは露骨に眉をひそめた。
 果たして、央明の居室に通ずる控えの間まで来ると、母のキンキンした甲高い声が響き渡っている。
 チュソンは吐息をつき、扉を開けた。
 一瞬見た光景に、彼は胸をつかれた。
 母は当然ながら、蓮花の屏風を背にして座椅子に座っている。央明は文机よりかなり離れた下座でうなだれていた。
 嫁とはいえども、国王の娘をあんな下座に置いて良いと母は本気で考えているのだろうか。母が上に座るのは当然としても、央明は母の位置からすれば、あり得ないほど下座にいた。
「嫁してきたばかりの新妻が昼日中から漢籍を読むとは、正気の沙汰では考えられぬ。そなたが今すべきは良人の衣類を整えるなり、屋敷内の目配りをするなり、数えきれぬほどあるはずだ。一家の女主人というのは容易くはない。殊に今は結婚したばかりで、することは山とある。そなたが己が務めも放り出し書物に現を抜かしておるゆえ、奉公人どももろくに仕事をせず怠けておるのだ。この屋敷は皆、緩みきっておる」
 もう聞いてはいられなかった。チュソンは室に入り、大股で母に近寄った。
 息子の顔を見るや、母の顔が笑み崩れた。
「チュソンや。嘉礼の後は一向に顔を見せてくれないので、どうしているかと心配していましたよ。居ても立ってもおれらず、こうして訪ねてきました」
 央明に対する棘のある声とは天地ほども違う猫なで声だ。チュソンは我が母の別の一面を初めて見た。あまり良い気持ちはしなかった。
 チュソンは無難な言い訳をした。
「色々と忙しかったものですから。お伺いできず、申し訳ありませんでした」
 母が意味ありげに言った。
「忙しい? そなたは畏れ多くも国王殿下の姫君を賜った身でしょう。附馬は一生涯、名ばかりの官職を与えられ、王室の飼い殺しにされる身。何が忙しいことがあるものですか」
 チュソンは思わず声を荒げた。
「母上!」
 幾ら何でも、酷すぎる。うつむいているため顔は見えないが、央明の肩が小刻みに震えていた。泣いているのかもしれない。
 チュソンは自分を必死に抑え、冷静な声を出そうとした。
「そのことについては、もうご納得して頂いたはずです。翁主さまとの結婚は私自身が望み、よくよく考えた上でお受けしたことですゆえ」
 母が腹の底からわき出るような声で言った。
「そなたは納得していても、私はいまだに納得はできていません」
 母が憎々しげに央明を睨めつけた。
「そなたは科挙に最年少で首席及第した身ではないか。それをみすみす、こんなことで棒に振るなんて、母は我慢なりません」
 憤懣やる方なしといった体で続ける。
「しかも、そなたが将来をなげうってまで迎えた嫁御は妻としての屋敷内の采配をするでもなく、昼日中から殿方が読むような書物に現を抜かしておる」
 チュソンは静謐な声で断じた。
「翁主さまは、いつも書物を読んでいるわけではありません。私の妻として、この屋敷の女主人としてやらねばならぬ務めはすべて滞りなくやっています」
 実際、央明はただ頭が良いだけではなかった。女の諸芸万端はすべて身につけていた。
 結婚してまだ日も浅いが、央明は既に幾度も厨房に立ち、自ら腕をふるっている。チュソン自身、央明の手料理を食べたことがあるので、料理も一級の腕前だと自信を持って言える。
 それでも彼女はいつも慎ましく、年配の女中から、あれこれと教わりながら大勢の女中たちに立ち交じって働いていた。使用人だからとけして上から目線で物を言うのではなく、己れに非があれば頭を下げ、至らないところは素直に認めて使用人に教えを乞うていた。だからこそ、女中たちは年若い央明に心服し、
ー若奥さまの仰せなら。
 と、従順に働くのだ。
 チュソンは実家の使用人たちに対して、母が頭を下げるのを見たことは一度たりともない。母はけして非情な女主人ではないけれど、やはり典型的な両班家の人間だった。使用人は自分たちとは違う世界の人間であり、自分たちは生まれながらにかしずかれる特権を持っているのだと信じて疑わない。
 料理だけではなかった。央明は仕立ての腕もなかなかものだし、刺繍も見事なものだ。
 結婚以来、彼が愛用しているのは央明が手ずから縫い上げた道袍だ。良人に対して距離を置いているというのに、彼女は彼のために手ずから衣服を縫い上げてくれた。チュソンは何より、その心遣いが嬉しかった。
 央明を育てたのは亡くなった保母尚宮だというが、よほど心利いた女性であったのだとチュソンは央明の乳母が早死にしたことを残念に思ったものだ。
 息子が嫁を庇ったのは逆効果だった。そのことをチュソンはすぐに身をもって知った。
 母はいきなり文机に置かれていた書物を取り上げ、力任せに引き裂いたのだ。
 あまりの展開に、チュソンはなすすべもなかった。貞淑な母はいつも鷹揚に笑っていた。少なくとも、チュソンには優しい母であったのだ。