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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 扇子屋の前には美しい絵が巧に描かれた扇子、靴屋の前には鮮やかな色合いの靴が並んでいた。
 チュソンはまた央明に訊ねた。
「扇子や靴はどう?」
 央明は無言で首を振る。チュソンは扇子屋の前で足を止めた。つがいの鴛鴦(おしどり)を描いた扇子が眼に止まったのだ。
 何故か心惹かれるものを憶え、彼は自分自身のために扇子を買った。鴛鴦は夫婦仲が睦まじい生き物として知られる。婚礼の飾り物にはつがいの鶏や鴨ではなく、鴛鴦の置物を使う場合もあるのだ。
 いつか自分と央明も鴛鴦のようになれたら良い。チュソンはそんな願いを込めて扇子を手にした。
 隣の靴屋では、女性用の靴を熱心に物色した。靴屋の店主は四十ほどの女だ。
「旦那さま、差し上げるお方は、お幾つくらいで?」
 女主人に問われ、彼は屈託なく応えた。
「妻に贈りたいんだが」
 店主がチュソンの傍らに立つ央明を見た。
「こちらの奥方さまですか?」
「うん。まだ嘉礼を挙げたばかりでね」
 店主がいささか大仰な声を上げる。
「まっ、じゃあまだ新婚ほやほやじゃありませんか」
 店主は背後に積んでいる箱の一つから、緑の靴を出してきた。エメラルドグリーンの靴は、つま先だけが萌葱色だ。白い小花の刺繍が精緻に入っている。
「良いな」
 華やかだけれど、上品な意匠である。
 店主が我が意を得たように、にんまりと笑った。
「これは物が良いんですよ。その分、少しお値段は張りますけどね」
 店主は緑の靴を揃えて央明の前に置いた。
「奥さまがお召しのご衣装にも誂えたようにお似合いです」
 確かに央明のチマと緑の靴は色合い的にもぴったりだ。
「靴に刺繍されているのは白い藤かな?」
 店主が首を傾げた。
「よく判りませんねえ。今の季節だから、旦那さまのおっしゃる通りかもしれませんね」
 チュソンの決断は早かった。
「では、これを貰おう」
 と、央明がチュソンをつついた。
「今し方、簪を買って頂きましたから」
 無駄遣いをするなと言いたいらしい。だが、チュソンはここでも譲らなかった。
 チュソンは浪費をする性分ではない。唯一、金に糸目を付けないのは、書物を購入するときだけだ。読んでみたい本、価値のある本であれば、途方もない値がついていても躊躇わず買う。
 だが、己れの衣服など
ー裸で出歩くのはまずいから、身につけるだけで、ましてや女でもあるまいに、男は何を着たって同じだ。
 という非常に大ざっぱ過ぎる考えである。
 そんな彼だが、美しい妻に関しては別だ。央明を飾るためなら、多少の金は惜しくない。
 なので、その日も気前よく高価な靴を買い上げた。
 必然的に、靴屋の内儀は機嫌が良い。内儀が靴を包もうとするのに、チュソンは断った。
「ここで履いてゆくから」
 チュソンは今、買ったばかりの靴を央明の前に置いた。
「履いてごらん」
 央明は少し躊躇った後、今まで履いていた靴を脱ぎ、真新しい靴に脚を入れた。今まで履いていたものは店主が手際よく紙に包んでくれたため、チュソンが持った。
 そこでチュソンは片膝ついた。
「まだ求婚(プロポーズ)していなかったから、今日、改めて求婚します。私の妻になってくれて、ありがとう」
 人の好い内儀は感動のあまり、瞳を潤ませている。
「良いねぇ。若い人は」
 と、傍らの扇子屋までこちらを見ていた。
「そっちの靴屋は儂の連れ合いがやってるんでさ。いや、本当に若いってえのは良いね。羨ましいよ。なあ、嬶ア、俺らもこんな可愛げのある時分があったなんて自分でも信じられねえな」
 額の剥げかかった扇子屋も女房と並んで、しみじみと言っている。似合いの夫婦といえよう。
 内儀が言った。
「今、都では若い人たちの間で惚れた娘に靴を贈って求婚するってえのが流行ってるからねえ」
 傍らで亭主が相槌を打った。
「あんたら、身分が高そうだし、政略結婚なんだろ。結婚前でなく、結婚後の求婚っていうのがまた良いじゃねえか、泣かせるぜ」
 チュソンと央明の親と同年代の夫婦は揃って涙ぐんでいた。
 チュソンは狼狽えた。いつしか、自分たちを囲んで小さな人垣ができていたのだ!
 大概はその日暮らしの庶民のようだ。
「何でも両班が奥方に公開プロポーズしてるらしい」
「よっ、若い旦那、格好良いぜ」
「朝鮮一の色男だ」
「別嬪の奥さんを大事にな、浮気するんじゃないよ」
 この科白には座がどっと湧いた。男たちがゲラゲラと笑っている。
 言いたい放題ではあるが、どれも好意的なものばかりだ。
 チュソンは穴があったら、入りたい心境だった。
「済まぬが先を急いでいる。通してくれ」
 チュソンは人垣をかき分け、這々の体で輪の外へ出た。
「行きましょう」
 チュソンは逃げるようにその場を離れた。
「いよっ、ご両人」
「お似合いだよっ」
「そんなに急いで、二人きりで何をするんだいっ」
「決まってるじゃねえか、新婚夫婦がすることといやア、両班でも俺らでも、やることは同じだよっ」
 また笑いが起こっている。
 背中に野次が飛んでくるのがますます恥ずかしい。
 二人とも小走りに駆けるように歩いていたので、知らない間に大通りを抜けていた。露店が並んだ一角が途切れ、ここからはちゃんとした店舗を構える店が目立つようになる。
 その一角に茶房(カフェ)があった。かなり大きな建物は二階建てのようである。
 走りっ放しで喉も渇いたことだし、チュソンは央明を連れて茶房に入った。
 茶房は人気らしく、一階は満席だった。出迎えた女給が二階へ案内してくれる。二階も一階と似たような作りで、広い空間に適度な距離を空けて円卓と椅子が配置されている。
 一つだけ違うのは、二階は空間そのものが人工庭園になっている点だ。藤棚が天井になっており、満開の紫、薄紫、白の色とりどりの藤が咲き誇っている。
 かなりの広さがあるため、なかなかの圧巻だ。かすかに芳香が満ちているのは、花のせいに相違なかった。
 二階もほぼ満席に近く、二人が座れたのは階段を上がりきってすぐの場所だ。できれば眺めも良く落ち着ける窓際が良かった。人通りが多いが、この際、我慢しよう。
 央明が好きな藤の花の下でお茶を楽しめるなら、やはり二階の方が良かったのだ。
 チュソンは央明と向かい合う形で椅子に座った。
「何にしますか?」
 チュソンは献立表(メニユー)を広げ、央明に見せた。
 軽い食事もできるらしいが、やはり主役は豊富な種類のお茶とお菓子のようだ。
「私は柑橘茶を」
 央明が小さな声で言った。
 チュソンは微笑んだ。
「私も同じものにしよう。折角だから、甘味も注文したら?」
 央明は首を振った。
「私、甘いものは苦手なので」
「そうなんだ。女の子は大抵、甘いものが好きなのかと思ったけど、違うんだな」
 チュソンは頷き、近くにいた女給を呼んで柑橘茶を二つ頼んだ。
 随分待たされた頃、漸く柑橘茶が運ばれてきて、ホッとする。相も変わらず央明は何も喋らないので、取り付く島もないのだ。
 チュソンは妻がお喋りとはゆかないまでも、よく話すことを知っている。今日に限って黙(だんま)りを決め込んでいるのは、やはり、二日前の出来事が尾を引いているからなのだろうか。