裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】
初恋が成就して舞い上がっているのは自分だけで、央明にとっては迷惑なのか。
ここは自分たちの始まりともいえる場所だ。思い出深い場所に妻と二人で来て、チュソンは感慨に浸っているというのに、央明の方は少しも嬉しそうでも愉しげでもない。
通りの周囲には様々な露店が建ち並び、露天商たちから威勢の良い声が飛び交っている。品物を売ろうとする店主、少しでも安く買おうと値切る客の声が入り乱れ、いささか騒々しいほどだ。
人気のある店には客が蟻のように群がっている。央明はどの店にも興味を惹かれない様子で、ただ前方を真っすぐに見つめて歩いているだけだ。
二人の間には、救いようのない雰囲気が漂っており、時間と共に重くなるばかりだ。
チュソンは何とか央明の心をほぐそうと様々な会話を振ってみたけれど、央明はまったく話に乗ってこなかった。
何がいけなかったのだろう。チュソンは道々、幾度も考えてみた。
祝言の夜以来、妻との間は少しずつ縮まってきた。チュソンが央明の?夢?に理解を示したこと、二人の国の在り方に対する考えが同じだったこともある。
だが、二日前のあの一件ーチュソンの不用意な発言で、折角近づきかけた彼女はまた手の届かない遠くに行ってしまった。
もしや、彼女は男嫌いなのか?
稀に病的なほど潔癖な女性がいるとは話に聞く。そのような女人は男性に触れられるのはおろか、近づかれただけで鳥肌が立つという。見たところ、央明はそこまで徹底してはいないようだが、触れられるのは我慢ならないという可能性は十二分にある。
だとしたら、もっと話はややこしくなる。チュソンは重い心を抱え、それでも表面は笑顔を作った。ここで自分まで大人げなく仏頂面になろうものなら、更に絶望的だ。
折しも少し先には小間物屋が店を出していた。初老の店主の前の露台には、様々な品が所狭しと並んでいる。
その上には眼にも彩なノリゲがつり下げられ、初夏の風に揺れていた。
チュソンは央明を見た。
「あそこに寄ってみましょう」
央明がかすかに頷いたので、彼は先に立って歩いた。チュソンたちが到着したのと入れ替わりに、数人の客が立ち去った。木綿のチマチョゴリを纏った中年の女房と年頃の娘は母娘のようだ。それから連れだった数人の令嬢は上物の華やかなチマチョゴリを着ており、どう見ても両班家の娘たちのようだった。
娘たちはチュソンを見ると、頬を染めて何やらひそひそと囁き合っている。
チュソンは妻にばかり気を取られており、他の女など眼中にない。すっきりと蒼の道袍を着こなしたチュソンは実のところ、かなり人目に立つ貴公子であった。だが、チュソン自身は自分が良い意味で人目を引くとまるで自覚がない。それは彼が天才と畏怖されるほど頭脳明晰である自覚がないのと同じだ。
ただ、彼女たちはチュソンの側にいる央明をも見逃してはいなかった。嘉礼の翌朝、央明は後ろで編んで垂らしていた髪を既婚婦人らしく結い上げた。今日の彼女のいでたちは紅色の上衣に緑のチマを合わせている。上衣には金糸で細やかな刺繍が全面に施され、ふんわりと花びらのようにひろがったチマは濃い緑の布地の上に淡い緑の紗を重ねて二枚仕立てにしている。
いかにも良家の若夫人らしい装いは、十八歳という央明の若さと初々しさを引き立てていた。彼女たちはチュソンをしばらくチラチラと未練がましく見ていたが、傍らの央明を見て肩をすくめて行ってしまった。
彼女たちも既婚者に血道を上げても仕方ないと知っていたのだ。
彼女たちに気の毒なくらい、チュソンは央明しか見ていない。今も鮮やかな緑のチマが白い肌によく映えると、妻を恍惚りと眺めていた。
多分、妻は緑が好きなのだろう見当をつけている。日々の衣装は必ず緑が入っているから、婦人の装いには無頓着なチュソンでも流石に気がつくというものだ。
ふと気づけば、央明は一点を食い入るように見つめていた。チュソンは妻の視線の先を追った。
そこには、簪(ピニヨ)が整然と並んでいる。大きな玉石が一つついたシンプルな意匠(デザイン)から、花の形に彫り込まれた凝ったものまである。
チュソンは央明に言った。
「結婚して初めての逢瀬(デート)だ。何か記念に買おう」
我ながら逢瀬などという言葉を使うのは、顔が赤らむほど照れくさかった。それでも、央明相手にその言葉を使えるのがまた嬉しいとくるのだから、救いようがない。
重ねて央明に問うた。
「どれが良い?」
しかし、央明は首を振るばかりだ。
彼は妻がずっと眺めていた簪を見た。一風変わった意匠で、小さな花を模した玉が連なり、同じ連なりが垂れ下がった感じでたくさん付いている。
チュソンは露台に近づき、その簪を手に取った。小さな花がたくさん連なった様は、藤棚から垂れ下がった白藤に酷似している。
なかなか凝った作りで、小さな花はあるものは真珠、あるものは黄玉(ホワイトトパーズ)で出来ていた。
チュソンは気軽に店主に訊ねた。
「これは藤の花に見立てているのだろうか」
小柄な中年男は小さな顔一杯に愛想笑いを浮かべている。
「流石、旦那はお眼が高いでやすね。都でも名の知れた工房の熟練した職人が拵えた値打ち物でさ。どうです、丁度、今の季節にもぴったりだ。美しい奥方さまにお一ついかがでやしょ」
揉み手をせんぱかりの口上に、チュソンは苦笑いしかない。それでも、妻を褒められれば悪い気はしなかった。彼は袖から空色のチュモニを取り出し、店主に金子を渡した。
男は威勢の良い声を上げた。
「毎度ありがとうごさいます。ただ今、当店でお買い上げのお客さまには巾着も差し上げてるんで」
簪を入れるための桜色の巾着も出そうとするのに、チュソンは手を振った。
「いや、これはすぐに使うから」
「そうですか、じゃあ、少し負けときますよ」
と、釣り銭を返してよこした。
央明は、チュソンの背後に隠れるようにして立っている。店主は伸び上がるようにして、央明にも声をかけた。
「美人の奥さま、是非とも当店をご贔屓にお願いしますよ」
央明は喋るどころか、ニコリともしない。内心では随分と愛想がないお高く止まった奥方かと思ったに違いないが、表に出すほど愚かな店主ではなかった。
昼過ぎとあり、通りを行き交う通行人はますます増えたようだ。
「こちらへ」
チュソンは人々の邪魔をせぬよう、央明を促し道の端へ移動した。先刻、買ったばかりの簪をそっと央明の結い上げた黒髪に挿してやる。
一瞬、央明が何事かと警戒するように振り返った。チュソンが宥める口調で言う。
「簪を挿しただけだよ」
央明がごく自然な仕草で、髪に手を当てた。
チュソンは優しく微笑んだ。
「央明の好きな白藤を象っているそうだ」
央明がプイと顔を背けたが、耳朶が薄く色づいている。拗ねているのではなく、照れているらしい。
チュソンは見て見ぬふりをして、特に指摘はしなかった。央明が歓んでくれたなら十分なのだ。
彼女が動く度に、髪に挿した白藤の簪がしゃらしゃら揺れる。その涼しげな音は耳にとても心地良いものだ。
小間物屋を離れてまた通りを歩き出すと、次は扇子屋、靴屋が並んでいる。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】 作家名:東 めぐみ