小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

INDEX|35ページ/41ページ|

次のページ前のページ
 

 時折見せる淋しげな表情ですら、憂いに満ちて惹かれるけれど、やはり央明には笑顔が一番似合う。チュソンは彼女の笑顔が好きだ。何千回、いや、何万回見ても飽きないだろうくらいに。
 央明はまだ鼻の上に皺を寄せたまま言った。
「判りやすく言うと、お化粧の濃さが違うんです」
 チュソンは軽く頷いた。
「なるほど。確かに夜に逢うあなたは昼より薄化粧というか、素顔に近いようだ。さりながら、判るようで、よく判らないな。夜は昼間と違って、薄暗い。当たり前に考えたら、夜は昼より濃い化粧をすると思うけど」
 央明が吹きだした。
「それは少し違います」
 ううんと、首を振り続ける。
「全部違うというわけではないけれど、大体、夜の方が昼よりは化粧は薄くします」
 チュソンは唸った。
「へえ、そうなんだ。意外だな」
 央明が面白そうに言った。
「だって、考えてみて下さい。夜はどこにも出掛けないし、眠るだけですよ? そんなに濃いお化粧をする必要はないでしょう」
 チュソンは素直に納得した。
「それはそうだね」
 央明はまたクスリと笑った。
「ただ、例外もあります」
 チュソンが眉をかすかにつり上げる。
「例外?」
 央明が愉しげに言った。
「夜、中殿さまは張り切って昼より濃い化粧をします。何故だか判りますか?」
 チュソンはポカンとした顔で首を振る。
「伯母上が? 皆目判らないな」
 央明がまた笑った。
「国王殿下が後宮に渡られるからですよ」
 チュソンは吹きだした。
「殿下の眼を愉しませようと、伯母上が張り切るのか!」
 央明も笑いながら言った。
「まあ、中殿さまに限ったことではありませんけどね。後宮の女君たちは皆、殿下が渡られる夜は張り切っていますよ」
 チュソンは笑いを堪えきれない。あの苛烈な性格の伯母が国王を迎えるために、一生懸命化粧に余念がないところを想像すると笑えてくる。想像し出すと、本当に笑いが止まらなくなった。
 チュソンが笑うので、つられたように央明も笑い出す。二人して、笑いがしばらく止まらなかった。
 央明は涙目になってもまだ笑っている。
「もし中殿さまがこの会話を聞いたら、水刺間(スラッカン)の肉切り包丁を持って私たちを成敗しにやってきそうですね」
 央明が真顔で言うものだから、チュソンはますます笑いが止まらなくなった。
「そいつは良い。伯母上が水刺間の肉切り包丁か!」
 ひとしきり笑い転げた後、チュソンが言った。
「いつかそなたも女君たちのように」
 央明が言いかけたチュソンを何事かと見つめている。
 チュソンがやわらかく笑った。
「いつか央明がそなたを訪ねてゆく私のために美しく紅を引いてくれる日を楽しみにしているよ」
 央明の顔色がスウと蒼褪めた。刹那、チュソンはまたしても自分がやらかしたことを知った。
「済まない。ふざけ過ぎたようだ」
 言い繕ってみたけれど、遅かった。央明は今までの愉しげな雰囲気はどこへやら、固い表情だ。もうチュソンが何を言おうとも、寄せ付けない頑なさが全身から立ち上っていた。
 央明が消え入るような声で呟いた。
「申し訳ありません。頭(つむり)が痛むので、今宵は食事をご一緒できそうにありません」
 体調を理由にされては、それ以上居座りもできなかった。
 チュソンは妻の部屋から退去せざるを得ない。立ち去り際、彼は妻に言った。
「夜はまだ冷える。夏風邪を引いたのかもしれないから、気をつけなさい」
 央明の返事を待たず、チュソンは室の扉を後ろ手で閉めた。
 ミリョンがいつしか戻ってきて、控えの間に端座している。チュソンを認めると、妻の忠実な側近は丁重に頭を下げた。
 控えの間を通り過ぎ、廊下に出た時、チュソンは後ろを振り返らずにはいられなかった。
 二人の距離は出逢いの頃に比べれば、ぐっと縮まった。だが、彼は妻との間が依然として薄い膜のようなものに隔てられていると漠然と感じていた。
 あるところまでは彼を近づけてくれるが、妻は今もなお一定の距離を置いている。そして、彼がその一線を越えた向こうへ踏み込もうとすれば、央明はたちまちにして彼女がきっちりと引いた線の向こうへと逃げ込んでしまう。
 近づいたかと思えば、彼女との距離はまた開いている。どれだけ努力しても、ある一点までしか近づけない。その残りの何歩かを彼はけして縮めることはできないのだ。
 彼の思い違いでなければ、その一線というのは、どうも央明とチュソンの拘わりー二人が名実共に夫婦となることに関係しているのではないか。チュソンに他意はなくとも、夫婦関係を結ぶことをほのめかしただけで、央明の態度は瞬時にして硬化する。最近、彼はそんな風に感じるようになった。
 もし彼の読みが正しければ、事態はかなり深刻といえる。単なる考え方や性格の違い、または相手の癖が気になるといった類いの問題ではないからだ。
 夫婦にとって、性の不一致は決定的な要因になる。いかに彼が寛容だとはいえ、子どもではあるまいに、毎夜、妻と手をつないで眠るだけで済ませるつもりはないのだ。
 仮にいつまで待っても妻が彼を受け入れない場合、どうするのか?
 彼女が望むように、すんなりと離縁というわけにもゆかない。国王が認めない限り、王女を賜った附馬は離婚は許されない。どころか、妻たる王女に先立たれたとしても、基本、附馬には再婚の自由はないのだ。
 またチュソン自身、惚れに惚れている央明を果たして諦められるのか、手放せるのか。
 まったく自信はないのだ。
 一体いつまで待てば良いのだろう。
 チュソンは暗い気持ちになりながら、自分の居室へ向かった。そろそろ女中が夕餉の膳を運んでくる刻限だが、食欲は一向に湧かなかった。
 どこからか風に乗って甘い花の香りが運ばれてくる。周囲を見回しても、邸内に妻の愛する白い花が見えるはずもなかった。
 
 その日、チュソンは央明を外に連れ出した。行く先は下町だ。央明が?中道政要?を隠れるようにして読んでいたのを発見してから、二日が過ぎていた。
 最初は誘っても、頑なに行かないと言うばかりだったが、今日ばかりはチュソンも後に引かなかった。大抵のことは妻の好きなようにさせているチュソンだ。
 チュソンも穏やかな見かけによらず、なかなか頑固な一面がある。央明はついに根負けしたのか
ー少しだけなら。
 と、チュソンと共に出掛けることを承知したのだ。
 二人にとって、下町は懐かしい場所に他ならなかった。十年前、互いに八歳で出逢い、チュソンは美しいだけでなく正義感と勇気を持った彼女に心奪われた。
 ひと度は諦めかけた初恋は意外な形で実り、二人は十年の刻を経て再び出逢いの場所に戻ってきた。
 今日も都の目抜き通りは、人で溢れ返っている。当代の国王は政治には関与せず、政治は議政府の官僚たちで行われていっている。
 とはいえ、押すな押すなの賑わいは、曲がりなりにも、王の治世が安定している証ともいえた。
 チュソンは先刻から妻の様子をそれとなく窺っていた。央明の麗しい面には何の表情も浮かんではいない。チュソンには央明が何を考えているのか、まったく判らなかった。
 やはり、この結婚は間違いだったのだろうか。弱気になりかける自分がいる。