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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 チュソンは女嫌いというわけでもない。自分を聖人君子だと思ったこともなかった。若い娘と共に枕を並べて眠る夜、何も感じないはずもなく、殊に隣で眠るのは八歳のときから恋い焦がれた初恋の娘だ。
 夜半、ふと目覚め傍らで眠る妻を見た瞬間、急に身体が高ぶることもあった。幾度、妻に触れようと手を伸ばしたか知れない。
 けれども、央明の無防備な寝顔を見る度、伸ばした手を引っ込めざるを得なかった。少しずつ彼女は自分を良人として信頼し始めてくれている。その信頼を裏切れば、やっと芽生えかけた心の通い合いも水の泡になるのは判り切っていた。
 央明の居室は控えの間と続きになっている。いつもはお付きのミリョンが主人を守るかのように控えの間に待機している。
 今日は珍しくミリョンの姿は見当たらない。なので、チュソンは控えの間から居室へ続く扉前で声をかけた。
「央明」
 返事はなかった。人の気配は確かにするので、妻がいるのは間違いない。
 チュソンは構わず扉を押した。彼が室に足を踏み入れるのと、央明が文机に置いていた書物を勢いよく閉じるのはほぼ同時だった。
「央明?」
 彼は不思議に思い、文机の前に座った。央明は慌てて立ち上がり、チュソンに席を譲る。
 蓮の花をやわらかな色彩で描いた屏風の前には淡い緑の座椅子が配置されている。チュソンは央明と入れ替わるように座椅子に座り、央明は文机の向かいに座った。二人が向かい合うような体勢である。
「どうした?」
 央明は両手で胸に書物を抱えている。チュソンが来たのがあまりに突然過ぎ、隠そうとして隠す暇もなかったように見えた。
 チュソンは黙って手を差し出した。央明は罰の悪そうな表情で彼を見返している。
 彼は待った。できれば問い詰めるような真似はしたくなかった。
 だが、妻は何も言わない。いざとなると、彼の愛らしい妻は途方もなく頑固になるのを彼は嫌というほど知っている。
 しばらくはにらみ合いが続いた。チュソンは溜息をつき、口を開いた。
「腕に抱えているものを、私に見せてくれるね?」
 央明はまだチュソンを上目遣いに睨んでいたけれど、諦めたように隠し持っていた書物を差し出した。
 チュソンは妻が差し出した書物を受け取り、表紙を見、更にページを繰ってみた。
「これは中道政要ではないか」
 央明が不承不承といった感じで頷く。
 ?中道政要?は清国で著された書物である。漢文で書かれた、かなり難解な政治書だ。二章に分かれており、第一章は民のための国作りには何が必要かについて、第二章は理想的な政治機構とは何かを具体的に説いている。題名の通り、
ー本来、政、国家とは一部の特権階級のものではなく、民衆のためにあるべきものだ。ごく少数の人間だけが特権を享受する国は本当の国家とはいえない。
 といった思想を礎に記されていた。
ーそれ政は平原を貫くひと筋の道のごとく、左右いずこに偏りても悪し。万民等しく恩恵を預かれる国家こそ理想の形と思ふべし。
 始まりの言葉は、あまりにも有名だ。
 ?中道政要?を読みこなし、更には読解できる知識人は、この国にもなかなかいない。
 チュソンは正直、愕いた。央明がいかに博識とはいえ、わずか十八歳の少女があの難解な政治書を紐解いているとは考えもしなかったからだ。
「何故、これを隠すんだ?」
 チュソンが穏やかに訊くと、彼女は形の良い口を不満げに尖らせた。
「旦那さまに取り上げられると思ったからです」
 チュソンは書物をそっと文机に乗せた。央明を静かな眼で見つめる。
「そなたはまだ私を誤解しているようだね」
 央明はプイと視線を背けた。
「父上(アバママ)でさえ、私がこれを読んでいるとお話ししたら、嫌な顔をされました。おなごにこのようなものは必要ないと。ましてや旦那さまがご覧になり、良い顔をされるはずがありません」
 チュソンは央明に視線を当てたまま続ける。
「私の前では隠す必要はない」
 央明が恐る恐る彼を見た。
「本当に?」
 チュソンは深く頷いた。
「央明、いつかも私は話したはずだ。迷惑をかけない限り、人は誰でも自分の望むように生きられる。私の考えもそなたと同じだ。生まれや男女の別で、やりたいことを制限するのはおかしい」
 央明の瞳に輝きが戻った。彼女は信じられない表情で彼を見ている。
「では、この本を堂々と読んでも良いのですね」
 チュソンはまた頷いた。
「もちろんだ。気兼ねする必要などないよ。好きなだけ読むと良い」
 央明は頬を上気させて言った。
「殿方は女が学問をするのは歓ばないのだと思い込んでいました」
 チュソンはわざと鹿爪らしく言った。
「私はそこまで狭量な男ではありませんよ」
 ややあって、彼は感嘆混じりに続けた。
「それにしても、あなたはたいした人だ。女人の身で、しかもその若さで?中道政要?を理解している人はそうそういないだろう」
 央明が面映ゆげに言った。
「理解しているだなんて、まだまだ言うには及びません。やっと第一章を読み終えたところだもの」
 チュソンは笑いながら首を振った。
「いやいや、第一章まで来ない中に挫折する人が多いから」
 央明が興味深げに訊いてくる。
「旦那さまはもう読破されたのですか?」
 チュソンが破顔した。
「まあね」
「流石ですね」
 央明が更に頬を紅くする。そのまなざしに憧憬が見え隠れしていると思うのは、自分の都合の良い勘違いか?
 科挙で首席合格と聞けば、他人はまるで神かはたまた人ならざるものを見るような眼でチュソンを見る。ただ彼自身は、何故、そんな些細なことで特別扱いされるのか皆目理解できない。
 今まで首席合格して良かったと思うことなど一度たりともなかったけれど、央明に憧れのまなざしで見られるなら、やはり甲斐があったと思うのだから、現金なものだ。
「旦那さまは度量の広いお方なのですね」
 央明に褒められただけで、チュソンはもう天にも昇る心地だ。
 チュソンは心から言った。
「私は、あなたにはいつもあなたらしくいて欲しいと願っている。この屋敷にいる限り、やりたいことを我慢したり、隠し立てする必要はないんだよ。あなたがやりたいと思うことをやれば良いし、好きなように生きれば良い」
 央明には、いつだって生き生きと輝き、愉しげに笑っていて欲しいのだ。チュソンは先刻、広庭で見た光景を思い出した。
 央明が女中たちに化粧をしてやっていた場面だ。年かさの女、年若い娘たち、どの女たちも皆、一様に頬を紅潮させ嬉しげに見えた。
 女人にとって、化粧術とはあれほどに幸福感と歓びをもたらすものなのかと、チュソンは改めて感じ入ったものだ。
 これはやはり、男の自分には理解の及ばないことなのだろう。
 あの和やかな女たちの光景を瞼に蘇らせ、チュソンは言うともなしに言った。
「そういえば、昼間のあなたは夜、閨で見るあなたとは微妙に雰囲気が違う。やはり、化粧の仕方が違うのかな」
 央明の美しい面に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「おっしゃる通りです。昼と夜では、やり方が違います」
 央明は鼻の上に皺を寄せて、言葉を探しているようだ。そんな表情は彼女を年相応の無邪気な少女に見せる。