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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 こうして、チュソンは朝廷からは身を引いた。附馬として与えられた官職にちなみ、これ以降は?附馬都尉?と呼ばれることになる。ちなみに、これは名ばかりの名誉職であり、官位は従二品となる。
 紫の官服を纏い王族並の待遇を受けるが、参内しても仕事はなく、ただ定められた場所で時間を潰すだけだ。
 それでも、チュソンに悔いはなかった。愛する女と共に過ごせる歓びこそが、彼にとっては至福に他ならなかった。
 吏曹に出向き、置いてあった荷物を纏め長官や次官、同輩連中に挨拶した二日後だ。
 チュソンは王宮に参内して、国王に謁見を賜った。謁見は王自ら望んだものだ。
 国王は呼び出したチュソンに事細かく近況を訊ねた。むろんチュソンのそれではなく、王が知りたいのは娘の央明翁主の生活ぶりなのは判っている。
ー翁主さまは日々、ご機嫌麗しく過ごされておいでですゆえ、どうぞご安心下さいませ。
 央明の屋敷での生活ぶりを話した後、チュソンはそう言った。
ーあの不憫な娘は、この広い王宮で頼るものとてなく、淋しき身の上であった。何より中殿に遠慮ばかりしていたのが父として哀れでな。附馬都尉よ、どうか娘を末永く慈しんでやってくれ。
 国王が謁見の終わりに告げたのは、嘉礼の日と同じ言葉であった。
 王宮から戻ったチュソンは道から続く石段を登り、門をくぐった。と、広い前庭に露台が置かれているのが眼に入った。
 露台には、総勢十人近くの女たちが集まっている。何事かとよくよく見れば、央明が女中たち相手に化粧を施しているのであった。
 今は十五、六の小娘が神妙な面持ちで鏡の前に座っている。央明は自慢の化粧道具一式が収まる収納箱(メークボツクス)から必要に応じては小道具を取り出している。
 綺麗なチマチョゴリでは動きにくいため、襷掛けに白い前掛け(エプロン)という勇ましい姿だ。
 彼は露台の傍らまで歩いてくると、立って妻の働きぶりを眺めた。何人かの女中たちは主人の帰宅に気づき、慌てて頭を下げている。
 央明の側で助手を務めているのは、元女官のミリョンである。彼女もいち早くチュソンに気づき、央明に知らせようとするのに、チュソンは目顔で首を振った。
 今の央明を見るが良い。黒目がちの双眸は光を宿して生き生きと煌めき、白い頬は上気している。こんなに愉しげな妻の姿はついぞ見たことがなかった。
 自分のせいで、せっかくの妻の楽しみを邪魔したくはなかったのだ。
「奥さま(マーニム)、私、この紅いのも付けて戴きたいんですけど」
 小娘が遠慮がちに言うのに、央明は微笑んだ。
「チェリは元から血色が良いから、頬紅は必要ないわ。あまり頬が紅すぎると、田舎娘みたいになるわよ?」
「い、田舎娘ですかぁ? それは嫌です」
 娘が泣きそうな表情で言うと、周囲を取り囲んでいた年かさの女中たちが一斉にドッと笑った。
 央明が娘の顔を試す眇めすしつつ言った。
「その代わりに、ここに少し色を入れてあげるの」
 央明はミリョンに言った。
「眼許に入れる粉を取って」
 ミリョンが収納箱から小さな陶器の器を取り、央明に渡す。央明は小さな刷毛で器の粉を掬い、チェリの上瞼に薄く塗った。
「チェリ、ちょっとだけ眼を閉じていて」
 チェリが眼を閉じている間に、央明はチェリの上瞼に塗った粉を指でのばしてゆく。
 仕上げは口紅だ。今度はまた別の器をミリョンが手渡し、央明は紅筆を使い、チェリの唇に桜色の紅を丁寧に塗った。
「どう?」
 央明が鏡の中のチェリに問いかける。
「頬紅を塗らない代わりに、眼の上に色をつけたの。これで眼がいつもより大きく見えるし、明るい色ではなく青色だから、大人っぽく見えるのよ。唇に乗せる紅はあまりに派手すぎるとかえって嫌みだし下品になるのよ。チェリは可愛らしいのが魅力だから、このくらいの薄紅色が似合うと思うの」
 チェリが鏡の中の自分を見つめて呟いた。
「私、別人みたい」
 また取り巻きの女中たちがドッと笑った。女中頭が笑いながら言う。
「本当だ、チェリ、まるで両班のお嬢さまみたいに綺麗だよ」
 傍らの三十ほどの女中もしきりに頷いている。
「奥さまの腕にかかりゃア、どんな醜女(ブス)だって都一の美人になれますよう」
「それを言うなら、都一じゃなくて朝鮮一だろ」
 女中頭がつつき、
「そりゃそうだ」
 と、中年の女中も賑やかな笑い声を上げた。和気あいあいと愉しげな雰囲気だ。
 央明がこの女中たちの女主人となってまだ三日しか経っていない。だが、早くも彼女は八人いる女中たちを老若問わず手なずけてしまったようだった。
 女中頭が声を上げた。
「それじゃ、次は私の番さね」
 そろそろ五十に手の届こうかという女中頭は十六のチェリよりも嬉しげにいそいそと鏡台の前に座り込んだ。
 チュソンはそこでそっと足音を忍ばせて屋敷の方へと向かったのだった。  
 自室でチョンドクの介添えで着替えを済ませた。チョンドクはチュソンの結婚に伴い、自ら志願して新居で今まで通り奉公することになった。妻は彼とは別に父ジョンハクの屋敷で働いている。
 チュソンはチョンドクに父の屋敷で働けば良いと何度も言ったのだ。恋女房と引き離すのは忍びなかった。だが、チョンドクは笑って言った。
ー別に、こちらのお屋敷に仕えるからって、女房と別れるわけじゃありませんよ。今まで通り家に帰れば、あいつやガキの顔を見られるんですから。
 というわけで、チョンドクは通いで新居へと勤めている。
ーあっちへずっといれば、いずれ使用人頭にもなれただろうに。
 チョンドクの父もまた羅家の執事を務めていた。
ー俺には執事になるより、ずっと若さまのーいや、旦那さまのお側でお仕えする方が大事なんです。
 その後、チョンドクが白い歯を見せた。
ーそれに、今でも旦那さまはガキの頃と同じで危なっかしいところがあるから、俺がお側にいなきゃならねえ。
ーこいつ、失礼なヤツだな。
 チュソンが睨むと、チョンドクは大笑いしていた。
 自分はつくづく恵まれていると思うのは、こんなときだ。生涯の想い人、かけがえのない友であり側仕えがいてくれる。
 同じ日の夕刻、チュソンはふと思い立って央明の居室に脚を向けた。どうせ夕食は二人向かい合って食べるのだ。チュソンの室で食べることもあれば、央明のところで食べることもあった。
 こんな風に、突然、妻の顔を見たくなるときがある。央明と過ごす時間は、とても心地良いひとときだ。彼女は女性ながら、チュソンを唸らせるほどの博識家でもあった。
 また初夜に交わした会話のように、今のこの国の階級差についても疑問を抱いている。
 殊に朝鮮の未来のあるべき姿について、彼女と議論を交わすのは面白かった。あの可愛らしい口から難しげな政治用語がポンポンと勢いよく飛び出すのを聞くのは心躍った。
 話をしたついでに、今日は妻の室で夕食を取っても良い。
 チュソンと央明は、あれから寝所はずっと共にしている。もちろん、二人は手を繋ぎ合って眠るだけで、男女の契りはいまだ交わしてはいなかった。