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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「私が化粧師になりたいと言ったら、乳母は哀しそうな表情でした。そんなことを口にしてはなりませんと厳しく注意されたんです」
 乳母は王女のために良かれと言ったのだ。でなくとも王妃に睨まれている王女が化粧師になりたいなどと言えば、馬鹿扱いされるのが良いところだ。
「乳母はあなたのことを思って諫めたのだろうね」
 王女も頷いた。
「判っています。王の娘が手に職を持つなんて、誰が聞いてもあり得ないことだと言うでしょうね」
「そうだな。哀しいことだけど、今の朝鮮では、あなたの言う通りだろう」
 王女がしんみりと言った。
「あなたは本当に私と結婚しない方が良かったかもしれません」
 まだ、そんなことを言うのかとチュソンが眉をつり上げかけた時、王女はポツリと言った。
「王の娘と結婚すれば、官職にはつけません。あなたのように拓けた考えを持つ方にこそ、私はこの国の政治を担って頂きたかった」
 王女が声を落とした。
「王室に生まれた者の考えとしては、非難されて当然かもしれません。でも、私は身分制度には反対です。旦那さまのおっしゃるように、人として生まれたからには誰もが望むように生きて良いと思うのです。身分だとか男だとか女だとかの狭い枠で生き方や職業を限定するのはおかしい」
 なるほど、彼女が言いたかったことを理解し、チュソンの顔から剣呑な表情は消えた。チュソンは深く頷いた。彼女の考えは、チュソンにも通ずる部分が多かった。
「確かに、身分だけではないね。この国では、男か女かによっても、生き方が固定されてしまう」
 女は結婚して家庭に入り、良き妻、母となるのが幸せであり、仕立てや伽耶琴(カヤグム)、舞などができれば良い。女には難しげな学問は必要ないというのが一般常識だ。
 そのため、男並に頭の良い女性がいたとしても、政治の表舞台に立つことはできなかった。裏腹に男として生まれても、生き馬の目を抜く政界で生きることが苦痛な者もいる。しかしながら、男に生まれれば両班なら学問をして科挙を受け官吏になるのが一般的な生き方とされている。
 仮に誰もが身分に関係なく、自分のやりたいことをやって生きてゆける世の中になれば、人はもっと幸せに生きられるはずだ。
「多分、私たちと同じことを考えている人も両班の中にもいると思います。もちろん、ごく少数派だとは思いますけど。でも、旦那さまのような優れた方が少数派を纏めて率いて下さったら、この国はもっと暮らしやすく誰もが幸せになれるでしょう。旦那さまが附馬となったのは、この国の損失であったと私は思います」
 チュソンはひそやかに笑った。
「あなたは私を買い被りしすぎているよ。確かに私はこの国の現状や身分制度に疑問を持っているけれど、だからといって真っ向から大多数派と闘うだけの気概もない。何より、私は尊い志を持つ政治家として生きるより、愛する女(ひと)と共に生きる道を選んだ。理想より、女を選んだ軟弱者さ」
 最後は少し自虐気味になった。王女は言葉もないようで、チュソンはまた余計なことを言ってしまったとほぞを噛む。
 とにかく、と、彼は殊更明るい声音で締めくくった。
「化粧師として生きるのを良人として認めるまではゆかないが、この屋敷内でなら、そなたの好きなようにしたら良い。何なら使用人たちに化粧をしてやってみたら? きっと女中たちも歓ぶだろう」
「本当ですか?」
 彼女の嬉しげな声。チュソンまで思わず笑顔になるような笑顔が彼を見下ろしていた。
「男に二言はないよ」
 王女は両手を頬に当て、頬を上気させ瞳を潤ませている。
「夢みたい。たとえ真似事でも、化粧師になれるなんて。旦那さま、ありがとうございます」
 大きな瞳をキラキラさせて言う彼女は、いつもにも増して更に魅力的だ。チュソンの身体の芯にまた熱が点りそうになり、彼は早口で言った。
「夜も更けた。一日色々とあって、あなたも疲れたろう。そろそろ眠りましょう」
 彼女がそろそろと自分の布団に潜り込む。チュソンが遠慮がちに言った。
「手、繋いでも良いかな?」
 ここですげなく拒絶されるのも覚悟していたのだけれど、王女はすぐに頷いた。
 おずおずと自分の手を差し出してくるので、チュソンも自分の手を布団から伸ばした。
 大きな手と小さな手が重なり、しっかりと結び合わされる。繋いだ手と手から温かなものが互いの身体へと流れ込むようだ。
 人の縁(えにし)とはげに不思議なものだ。
 何がきっかけでどう転ぶか知れたものではない。妻となったばかりの王女と話してみて、チュソンは彼女が根っこの部分で自分とよく似ているのに気づいた。
 男女の愛は何も愛欲だけではない。ーなどと、偽善者ぶるつもりはなかった。けれども、王女に言ったのは本当だ。
 自分たちにはまだ時間がある。性急に事を進めずとも、彼女がその気になるまで時間をかけてゆっくりと結ばれるのを待てば良いと考えていた。
 いずれ時が来れば、彼女も心身ともに自分を良人として受け入れてくれるだろう。その瞬間を待てば良い。
 たとえ身体を重ねずとも、こうして手と手を重ねただけでも、何かしら通い合うものはある。敢えて今夜、彼女を抱いたとしても、チュソンが手に入れられるのは身体だけでしかない。
 心の伴わない身体だけの繋がりほど、空疎なものはない。時間をかけて彼女に自分という男を判って貰えば、いつか彼女は身体だけでなく心をも委ねてくれるだろう。人間関係において最も必要なのは信頼だ。男女の関係でも、土台となるのはやはり信頼しかない。
 チュソンはいつしか心地良い眠りの底にいざなわれていった。
 
   接近

 その夜を境に、央明はチュソンに対する警戒をかなり解いたようであった。依然として少しの距離感はあるものの、祝言までのよそよそしさはもうどこにもなかった。
 王女と閨で腹を割って話したことがきっかけになったのは言うまでもない。チュソンが王女と同じ身分社会には否定的で、拓けた考えを持っていること、何より、彼女の化粧師になりたいという夢に理解を示したのが彼女には嬉しかったようだった。
 央明との婚姻に際し、チュソンは勤務先の吏曹を退職した。わずか三ヶ月にも満たない勤務であった。最初こそ央明に恋い焦がれるあまり、仕事もおろそかになったものの、その後は英才らしい仕事ぶりをいかんなく発揮していたチュソンだった。  
 いよいよ勤務も最後のその日、彼を扱(しご)いた吏曹参判はチュソンの肩を親しげに叩いた。
ーこんなことを言うのは不敬かもしれんが、おめでとうと言うべきかどうか。附馬となったからには、今後もう昇進の望みもなかろう。
 小声で言う上司に、チュソンは晴れやかな笑みを見せた。
ー私自身が望んだ人生です。ゆえに、後悔は片々たりともありません。
 吏曹参判は笑った。
ー俺がそなたの親なら、王女の婿なんぞ断固として反対するがな。科挙首席合格の天才の名が泣くぞ。
 吏曹参判はチュソンから見れば、父親ほどの歳の人だ。気は短いが、気の良い部下思いの上司であった。