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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 彼女は怯えている。当たり前だが、怯えている原因は自分だ。
「少しだけ、このままでいさせて」
 彼女を腕に抱き、チュソンは低い声で囁いた。
「あなたを心から愛しています。一生をかけて守りたい。もう二度と大切な女(ひと)を哀しませたりはしませんから、安心して」
 腕に閉じ込めた彼女がかすかに頷くのが判り、チュソンは名残惜しい気持ちで手を離した。
 その後、二人は二つ並んだ夜具に行儀良く収まった。気持ちが高ぶっているせいか、眠りはいっかな訪れない。
 チュソンは、ひたすら天井ばかりを見ていた。いかほど経過したのだろうか。
 枕許の蝋燭の減り具合からも、さほどの時間は経っていないだろうと判る頃、ついにチュソンは沈黙に耐えきれなくなった。
 ただ、王女は既に眠りに落ちている可能性もある。そのため、低めた声で問いかけた。
「もう眠りましたか?」
 返事はない。やはり、もう眠ったのだ。無理はなかった。もう日付は変わっているけれども昨日から今日にかけては、互いに大変な一日だった。彼女も疲れたろう。
 チュソンは諦めてまた天井を凝視したーその時。
「いいえ」
 と、消え入りそうな声が返ってきた。チュソンは身体を横向きにし、彼女の方を向いた。
 彼女は仰向いたままだ。
 チュソンは話題に困った。話したいことはたくさんあるのに、何を話して良いか判らない。なので、思いついたことを口に乗せた。
「紅(べに)の色、とても良い色だった」
「ー」
 彼女は沈黙している。一瞬、これはまた触れてはならない話題に触れたかと焦った。
 今夜、チュソンが暴走して彼女を奪いかけたそもそものきっかけは、彼女の妖しいまでに蠱惑的な唇のせいだったのだ。やはり、話題に出すべきではなかったかもしれない。
 チュソンは慌てて言った。
「失礼な話題だったかな」
「ーいいえ」
 今度は割と早く返事が来たので、ホッとする。
「あの紅の色は自分で選びました」
 意外にも彼女が話に乗ってきた。嬉しくなり、チュソンも応じた。
「そうなのか?」
 少し躊躇う素振りがあり、王女がひと息に言った。
「紅も自分で塗りました」
 素直に愕いた。両班家の娘でも普通、化粧は自分ではしない。お付きの侍女がするものだ。王さまの娘は女官がやるのだと信じ込んでいた。
「自分でやったのか?」
 愕きが声に出ていたのだろう、彼女が笑みを含んだ声で言う。
「紅だけではありません、白粉も塗りましたし、頬紅も眼許の化粧も自分でやりましたよ」
「では、すべて自分でやったということかな?」
「そうともいいますね」
「そいつは凄い」
 チュソンの物言いがおかしかったのか、彼女は笑っている。
「婚礼の化粧も自分でやりました」
 思わず子どもみたいに大声を上げてしまった。
「ええっ」
 王女はもうクスクスと声を立てて笑っている。
「そんなに愕くようなことでしょうか」
 問われ、チュソンは正直に応えた。
「その、何というか、高貴な女人というのは化粧に限らず何でもお付きの者にやって貰うのが当たり前なんだと思っていたからね」
 王女はサラリと言う。
「私は物心ついたときから、何でも自分でやってきました。もちろん、乳母やミリョンが手伝ってくれることもありましたけど、基本的に自分のことは自分でやるのが当たり前でしたね」
「それは何故なんだろう? あなたが暮らす殿舎は人手不足だったのか?」
 後ろ盾となる外戚もなく、生母も早くに失った彼女は表向きだとはいえ父王に冷遇され、王妃には疎んじられていた。その関係で、彼女に仕える女官も数少なかったのだろうと想像したのだ。
 王女は考えつつ話しているようだ。
「旦那さまもご存じのように、私は日陰の王女と呼ばれていたほどです。確かに中殿さまに睨まれていたというのもありますけど、それだけではありません。私自身も誰かにやって貰うより、自分でやる方が気楽なので」
「そんなものかな」
 チュソン自身も着替えは自分でやるが、やはり身辺の雑用などはチョンドクに任せることが多い。
「余計な気を遣わなくて済みますから」
 納得できるようでできない応えではあったが、そこは深くは追及しないでおいた。
 だが、婚礼化粧でさえすべて自前だというのはすばらしい。チュソンは感嘆の口調で言った。
「婚礼の化粧までやってのけるというのは、流石に凄いな。着付けもまさか自分でやったとまでは言わないだろうね」
 また笑いを含んだ声が返ってきた。
「婚礼衣装の着付けは一人では無理ですね。あんな重たいものを着るのはもう二度とご免です」
 チュソンは弾んだ声で言った。
「あなたはもう私の妻になったのだから、あれを着ることは二度とないでしょう、安心して」
 一瞬、何とも気まずい沈黙が落ちた。しまったと思ったときにはもう遅かった。
 彼は慌ててまた次の科白を繰り出す。
「化粧のことは男の私にはよく判らないが、とにかく自分でやるというのは凄いと思う」
 また躊躇いを見せ、彼女が言った。
「私の夢は化粧師になることだったと言えば、旦那さまはどのように思われますか?」
 チュソンは眼をまたたかせた。
「化粧師? 女のひとに化粧をしてあげる仕事?」
 王女が勢い込んだ口調で言った。
「そう。例えば今日のように婚礼の主役の花嫁に化粧をしてあげたりするんです。王宮で暮らしていた頃は、実は乳母やミリョンの化粧をしてあげたこともあったんですよ」
 どこか得意げな口調が普段は大人びた彼女を別人のように見せている。抱きしめたいほど可愛い。
 もっとも、胸の内を彼女に知られれば余計に怯えられるだけなので、チュソンはおくびにも出さなかった。
 チュソンとて、化粧師を生業とする者がいるのは知っている。ただ化粧師にせよ、何にせよ、職人の地位は朝鮮ではけして高くはなく、賤しい身分とみなされるのも現実である。
 王族女性が仕事を持つなどは、もってのほかと見なされるのだ。王女が化粧師になりたいと言うのはけして歓迎されはしなかっただろう。
 彼が応えないので、王女の声が心なしか沈んだ。
「やっぱり呆れますよね。国王の娘の癖に、化粧師になりたいだなんて。旦那さまも私を常識知らずの我が儘王女だと思ったでしょう」
 チュソンは慎重に考えつつ応えた。
「いいや、そんなことはないよ」
 王女がハッとするのが判った。いつしか、彼女も天井ではなくチュソンを見つめていた。
 彼女が何かを恐れるように訊ねた。
「何故ですか?」
 チュソンは思案げに言った。
「人には生まれながらに自分の思うように生きる権利がある。もちろん、そのために他の誰かに迷惑をかけてはならない。でも、それ以外なら、何でもありだと私は考えている。両班に生まれたとしても、すべてが官吏に向いているとは限らないし、逆に民の中にも頭の良い者はいるから、ちゃんとした教育さえ受けられれば科挙に合格もできるだろう」
 突如として、ガバと彼女が身を起こす。チュソンは呆気に取られた。
 王女が明るい声で言った。
「そう、それなんですよ」
 嬉々とした表情は先刻までの淀んだものとは別人のようである。蒼白かった頬には赤みが差し、虚ろな瞳は生き生きと煌めいていた。