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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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ー近づくでない。
 チュソンは母にトカゲを見せられなくて、ひどく落胆した。そんな時、ヨニはチュソンを抱きしめ優しく言うのだ。
ー奥さまはトカゲがお嫌いなんですから、あんなことなさってはいけませんよ。
 だから、今度は蝉の抜け殻を集めて母にあげようとしたのだ。綺麗な寄せ木細工の箱に抜け殻をたくさん入れて母に渡した。
ーチュソンは優しい子ね。
 嬉しげに箱を受け取り、開けた母は金切り声を上げ、その場で失神した。
 チュソンは愕き、母が衝撃のあまり死んだのではないかと大泣きした。むろん母は死んだのではなく、拒絶反応を起こしただけだ。
 トカゲが嫌いな女人は珍しくはなかろうが、蝉の抜け殻に愕いて気を失う人は滅多とおるまい。
 以来、チュソンは母に贈り物をするのは止めた。ヨニには寄せ木細工の箱ではなく、ただの紙箱に同じように抜け殻を詰めて上げたら、とても歓んでくれた。
 どちらもチュソンは庭で苦労して集めたものだった。
ー若さまのお優しい心、ヨニは嬉しいですよ。
 チュソンはまたしても乳母の腕の中で泣いた。どうやらチュソンと母の価値観は対極にあり、母はどうしたってチュソンの趣味を理解できないようだと悟った日になった。
ーあの子はやることが野蛮すぎますわ。
 母が父にぼやいているのも聞いてしまった。
ー悪戯盛りの男の子は皆、あんなものだ。むしろ頭ばかりが良くて室に閉じこもっている軟弱者より、よほど元気が良くて楽しみではないか。
 父は母の繰り言に耳を貸そうとせず、それがせめてもの救いではあった。
 チュソンは母と少しずつ距離を置き始め、裏腹に息子が離れていったと知るや、母は途端にチュソンに対してより一層の干渉を始めた。チュソンはそんな母の干渉が嫌で仕方ない。
 チュソンは手にした二つの林檎を空高く放り投げた。チョンドクに言われるまでもない。チュソンとて銭の使い方くらいは心得ている。学問ばかりしかしない頭でっかちの世間知らずではないのだ。
 チョンドクはよもやチュソンが銭を隠し持っているとは考えてもいないだろう。気の毒なチョンドクをまんまと出し抜くことに成功した後、別の八百屋で買ったものである。
 一つは自分の分、もう一つはむろんチョンドクの分だ。後で彼にあげよう。
 ヨニがもう一人の母なら、チョンドクはチュソンには兄貴分に等しい。立場は主従ではあるが、彼には家族同然の二人だ。
 屋敷で澄まして食べるのでなく、往来を闊歩しながら食べる林檎の味は最高だろう。母が見ようものなら、
ー行儀が悪い。
 と、たちまち美しい眉をひそめそうだ。
 チュソンが林檎を頬張ろうとしたその時、背後で怒号が響き渡った。
 ただならない様子に、チュソンは意識せず振り返る。六つくらいの女の子が林檎を数個抱えて走ってくる。
 ボウと突っ立ったままでは、チュソンに体当たりしそうだ。チュソンは急ぎ避けようとしたが、時既に遅かった。チュソンと女の子は正面衝突し、女の子は道端に派手に転がった。ついでに色鮮やかな林檎もころころと転がっている。
 チュソンはぼんやりと道を転がる林檎を眼で追っていた。その時。
 派手な音が響き渡った。女の子を追いかけてきた八百屋の主人が彼女を殴ったのだ。チュソンが今し方、林檎を買った店の主だ。立ち上がりかけた女の子はまた物の見事に転んだ。
「まだ年端もいかねえガキの癖に、太ェ女(アマ)だ。白昼から堂々と商売物を盗みやがってよう」
 チュソンが見たところ、件(くだん)の八百屋は生来、残忍という質(たち)ではなく、むしろお人好しの部類に入るように思えた。そんな男が商売物を盗んだとはいえ、いきなり幼い少女を殴りつけるとは俄には信じがたい。
 と、いかつい大男の八百屋はがなり立てた。
「一体、これで何度目だと思ってやがる! 甘い顔をしていれば、良い気になりやがって」
 なるほど、やはり人の好さげな男がここまで怒り狂うのには、それなりの理由があったのだ。この女の子が盗みを働くのは今回が初めてではなかった。
 女の子がようよう身を起こして、駆け出そうとする。そうはさせじと八百屋がむんずと細い腕を掴んだ。
「逃げようたって、そうはゆかんぞ」
 まるで猫の子を掴むように、女の子の襟首を掴み上げる。それでも女の子がまだもがくので、八百屋は怒り心頭に発し、またしても太い腕で女の子を殴りつけようとした。
 まるで丸太のような腕だ。おまけに拳骨とくれば、下手をすれば、子どもは殴り殺されるかもしれない。
 いつしか八百屋と女の子の周囲には、たくさんの野次馬が輪を作っていた。
 たくさんの大人が事の成り行きを見守っているものの、誰一人として止める者ははない。
 幾ら何でも、あれはまずい、止めなければ。
 チュソンはしばらくの間、躊躇った。止めに入れば、当然、人の注目を浴びることになる。屋敷をこっそりと抜け出している身であれば、できれば避けたい。更に、あの太腕でまともに殴られれば、怪我をするのは必至だ。
 痛い想いをしたくないし、また怪我の原因について両親に説明するのもできれば避けたい事態だった。
義侠心と逡巡の間で揺れ動く時間は心苦しく、長いものに思われた。
 そのときだった。凜とした声音が割り込んだ。
「何をしているの!」
 チュソンは茫然と声の主を見た。視線の先には、美しい少女がいる。どう見ても、助けようとしている女の子より二、三歳年上にすぎず、それを言えば、チュソンとほぼ同じ歳頃に見えた。
 少女は憤然とした面持ちだ。細い手を腰に当て、それでも精一杯、八百屋に対抗するかのように見上げている。
 チュソンは、内心はらはらしながら様子を見守るしかない。助けに出たのまでは良いけれど、どう見てもウサギが熊に戦いを挑んでいるようにしか見えない。
 八百屋が鼻の穴を膨らませ、荒い息を吐きながら言った。
「何だ、お前は」
「あなたは、何故、その子を打つのですか?」
 少女は紅色の上衣に鮮やかな緑のチマを纏っていた。長い髪は後ろに編んで垂らし、やはり緑の髪飾り(テンギ)をつけている。
 八百屋が呆れたように、ハッと鼻を鳴らした。
「こいつは呆れたね。あんたは、この娘っ子が何をしでかしたのかも知らないで、俺を邪魔立てしたのかい?」
 少女は首を振った。
「いいえ、私はちゃんと見ていました。その子はあなたの売っている林檎を盗んだのでしょう」
 八百屋はますます呆れ顔だ。
「判っているなら、黙って引き下がって貰いましょうか、エ、お嬢さま(アツシー)。あんたのような両班には関係のねえことだ」
 確かに少女はどう見ても、良家の令嬢だ。それにしては、伴の者も見当たらないのがいささか気にはなるが。
 少女はまたわずかに前に進み出た。気圧されたように、八百屋がわずかに後ずさる。少女は図体で大男にはるかに及ばないけれど、迫力では負けていない。
 八百屋は依然として女の子の首根っこは押さえたままだ。
「その子のしたのは、確かに悪いことです。でも、貧しくて、その日に食べるものもなく仕方なくやったのではないでしょうか。空腹に堪りかねて盗みをした子どもをあなたは容赦なく殴るのですか?」
 八百屋の顔が赤黒く染まった。相当頭に来ているようだ。