裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】
あちこちで囁かれる会話は、新婦のこの世のものとも思えぬ美貌に感嘆するものばかりだ。
新婦は介添えと共に静々と入場し、中央の段前に新郎と向かい合うように座った。
花嫁の到着を今か今かと気を揉んでいたのは、むろん花婿たるチュソンも同様だった。
ーやはり、翁主さまはこの結婚が嫌だったのか。
時間になっても現れない花嫁に、チュソンの心は絶望に染まった。結婚式前に花嫁に逃げられ(ドタキヤン)たというのも大恥だが、チュソンにとっては世間の思惑よりは王女の気持ちの方が衝撃であった。
幸いなことに、王女はちゃんと婚礼の場にやってきた。しかし、定刻より大幅に遅れての到着である。大体、花嫁には支度があるから、数時間前には来ていなければならないはずだ。
それが今になって現れるとは、式を取り止めないまでも王女がこの結婚をどのように受け止めているかを物語っているようなものではないか。あまり認めたくはないけれど、王女は結婚に乗り気ではない。
しかし、そんなことに鬱々としていたのも、王女の姿を見るまでであった。華やかな婚礼衣装を纏った花嫁を見た瞬間、チュソンは彼女から眼が離せなくなった。
先月、新居を見にいった日は薄化粧であったが、今日は美しく化粧をしている。くっきりとした大きな瞳は紅で縁取られ、より大きく輝いているし、丁寧に塗られた白粉は元々の肌の白さ、きめ細やかさを際立たせている。
口許には椿色の紅が差され、形の良い額には花嫁化粧の花鈿が可憐さを添えている。
進行役が朗々と宣言した。
「新郎、拝礼」
花嫁に見惚れていたチュソンはハッと我に返った。
前庭には羅氏の使用人たちも混じっている。その中には恋女房と一緒に見守るチョンドクもいた。
ー若さま、美しい花嫁に腑抜けてちゃ駄目ですよ。
チョンドクと眼が合うと、彼の顔にはありありと書いてあった。使用人ではあるけれど、乳兄弟でもある彼とは幼い頃から兄弟のように育ってきた。
チュソンはチョンドクに小さく頷いて見せた。それから、チュソンは立ち上がり、花嫁に向かい、拝礼した。
「新婦、拝礼」
今度は花嫁の番である。婚礼衣装が重いため、花嫁は両側から介添え役に支えられての拝礼となる。
王女が拝礼を終えるまで、チュソンは惚れ惚れと眺めていた。
それから夫婦固めの杯を交わす。新郎新婦それぞれの盃に誓いの酒が注がれる。
チュソンは嬉しさのあまり、ひと息に煽った。しかし、肝心の花嫁は盃を持ったまま微動だにしない。
ここでもまた参列席が少しざわついた。
進行役が
「翁主さま、召し上がって下さい」
小さな声で促し、、花嫁は観念したように(少なくともチュソンにはそのように見えた)、やっと盃を口に運んだのだ。ただし、それはごく形式的に唇を当てただけだ。
もとより若い女性だから、酒をたしなまなかったとしても不思議はない。チュソンとしては可憐な花嫁が実は酒豪だったというよりは、むしろ苦手なくらいの方が良いと思っている。
これで一連の儀式は終了となった。無事に嘉礼を終えた二人は、これよりは世にも晴れて認められた夫婦となる。
祝言後は、列席者にご馳走がふるまわれ、祝宴となる。大広間には客人が向かい合って二列に並び、ご馳走の載った小卓が各人の前に置かれ、前庭には所々に円卓が配置され、そこにご馳走が並んだ。
屋敷の使用人たちが客の間を忙しそうに行き来しながら、給仕に奔走する。
流石に国王は祝宴には参加せず、ここで還御となる。
チュソンは妻になったばかりの王女と共に、門前まで王を見送った。
門から道へと続く石段を降りる間際、王は感慨深げに王女を見つめた。手を伸ばし、そっと娘の髪に触れた。
「今日の晴れ姿をそなたの母が眼にすれば、どれほど歓んだことか」
王女はいつものように静かに王を見つめ返してはいるが、澄んだ眼(まなこ)は潤んでいた。
「今まで育てて頂きまして、ありがとうございました」
王はゆっくりと首を振った。
「そう言われると恥ずかしい。消え入りたい想いだよ。朕(わたし)はそなたに父として何もしてやれなかった。ーばかりか、中殿に遠慮するあまり、冷たい態度をとり続けてきた」
王女が微笑んだ。
「お父上のお気持ちは、折々に頂いたお手紙でよく理解しております。どうか、ご自分をお責めにならないで」
「心優しい娘に育ったものだ」
王の眼にはこの時、確かに涙があった。
「幸せになりなさい。これでもう、そなたも王妃に気を遣う必要もない。これより先は、望むままに生きれば良い」
次いで王はチュソンを見つめた。
「科挙に首席合格したそなただ。これから幾らでも立身できたであろう。それほどまでに我が娘を望んでくれたとは、父として何とも嬉しいことだ」
チュソンは心から言った。
「この度は大切なご息女を頂き、ありがとうございます。我が身命に代えましても、翁主さまをお守り致します。どうぞご安心下さい」
王は嬉しげに顔をほころばせ、チュソンから王女に視線を移した。
「何とも頼もしい婿の言葉ではないか。ナ・チュソン。我が娘をよろしく頼む。早くに母親を亡くし、淋しい身の上で育った娘だ。これからは子宝に恵まれ、幸せになることを祈っておる」
「お言葉、胸に刻みます」
チュソンが頭を下げ、王女も並んで頭を下げた。王はチュソンの肩を親しげに叩き、王女に微笑みかけると背を向けて階段を降りていった。
二人はもう一度、深々と頭を垂れた。
嫁ぎゆく娘を見送る国王は紛れもない父親の顔をしていた。そこには親が子を思う情愛には貴賤の別なく、ひたすら娘の門出をことほぐ父の姿しかなかった。
別れを交わす二人を見て、チュソンは王女を守ろうという決意を新たにしたのである。
だが、なかなかチュソンの思うようにはゆかなかった。
どこかで、花が香っているのだろうか。央明は髪を梳いていた櫛を置き、姫鏡台を覗き込んだ。頭を軽くひと振りすると、艶やかな黒髪が滝のように流れ落ちる。
彼女は長い髪を手早く横に寄せて一つに纏めた。鏡には、蒼白い顔をした女が映っている。
こんな憂鬱そうな顔をした女と暮らして、チュソンはどこが嬉しいのだろうか。央明の側にはズラリと化粧道具が並んでいる。どれも、彼女が普段から愛用しているものばかりだ。
小さな陶器を手に取り、蓋を外す。これは白粉だ。白粉叩き(化粧パフ)で白粉を少量掬い、肌にポンポンと手際よく付けてゆく。昼間の化粧と違い、夜はあまり濃くしない。これから良人と初夜を迎えるはずの花嫁があまりに濃い化粧をするのも外聞が悪い。
第一、あの男ーチュソンに初夜に備えて気合いを入れてきたなどと誤解されては堪ったものではない。
とはいえ、まったくのスッピン(素顔)というのもあまりにたしなみがなさすぎる。こんな場合は、そこはかとなきくらいが丁度良い。
白粉は軽くはたく程度で終え、眼許には薄く紅を入れ、指の腹で軽くこすってぼかした。唇には珊瑚色の紅を丁寧に引き、仕上げに紙を銜える。これは歯に紅がつかないためである。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】 作家名:東 めぐみ