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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 王女の生母を殺害したのは、他ならぬ伯母ではないか。平然と彼女の母を殺しておきながら、よくもぬけぬけと言えたものだ。
 昔から伯母のことは好きではなかったが、これで決定的に愛想が尽きた。
 国王がついに到着された。今日は龍袍ではなく、渋茶色のパジチョゴリを纏われている。地味な色合いではあるが、光沢のあるしっとりした布地は清国渡りの上絹製であるのは一目瞭然だ。鐔広の帽子(カツ)から顎に垂れ下がるのは煙水晶(スモーキークオーツ)だ。
 嘉礼(カレ)が行われるのは、広い前庭が見渡せる大広間であった。縁先に主賓の席が設えられている。中央に国王、その両脇にそれぞれ新郎の両親が居並ぶ。
 新郎の父と母も息子の晴れの日に備え、盛装に身を飾っていた。殊に兵曹判書夫人は既に四十になろうかというにも拘わらず、臈長けた美貌は人目を惹いた。
 式が始まる刻限が迫り、さしもの広い庭にも列席者が溢れている。主立った招待客は広間に集っているが、その他の人々は庭で祝言が滞りなく終わるまで見守るのだ。
 時間になった。嘉礼の進行役を務める中年男性は、新郎の父の友人である。進行役が高らかに祝言の始まりを宣言した。
「新郎、入場」
 威儀を正して新郎が広場に入ってくる。花婿の衣装は王族にのみ許される紫衣である。これより後、王女の良人となったチュソンは王族としての待遇を受けることになるのだ。
 凜々しい花婿に紫の官服がよく似合う。
 入場してきた花婿は、中央に設置された壇の前で止まった。壇には様々な縁起物が置かれている。林檎、薬菓が高坏に山盛りになり、蒼と紅それぞれの風呂敷に包まれた鶏がコッココとせわしげに啼いていた。
 新郎は壇前に敷かれた錦の座布団に端座した。そこで前庭にいる参列者たちがざわめき始めた。
 いや、庭だけではない、広間に集まった貴賓たちも皆、一様に顔を見合わせ、ひそひそと囁き交わしている。
 異常な気配に気づいたのか、国王が傍らのジョンハクに問いかけた。
「兵判、何やら騒がしいようだな」
 ジョンハクは恐縮しつつも、注意深く前庭を見つめた。これが異常事態なのは明らかだ。
 しかし、御前で口にするのはいかに何でもはばかられる。
「一体、どうしたというのだ?」
 怪訝そうに訊ねる王に、ジョンハクは囁き声で言上した。
「畏れながら、翁主さまがまだお越しにならないようにございます」
 王の顔色が変わった。
「何だと?」
 王は自らを落ち着かせるかのように息を吐いた。
「そのようなことがあるはずがなかろう。央明は今日の主役だぞ」
 ジョンハクは立ち上がりながら言った。
「私、確認して参ります」
 その時、執事が怖々と近づき、ジョンハクに耳打ちした。
「大監さま、央明翁主さま、ご到着の由」
「あい判った」
 ジョンハクは執事をねぎらい、また席へと落ち着いた。
「殿下、翁主さまがご到着になったそうです」
 王の顔にあからさまな安堵がひろがった。
 当代の国王は六十歳になる。女好きだという評判はあるが、英雄色を好むとの諺通り、覇気に満ちた剛胆な性格の方で、特に鷹狩りを好んだ。暗君というわけではないが、かといって政に格別熱心というわけではもない。
 まさに毒にもならず薬にもならずといった王ではあるが、政治は議政府の熟練官僚たちによって円滑に行われており、治世は安定している。
 ただ王妃の実家羅氏が政治の実権を掌握しており、朝廷の主立った官職は羅氏一族に独占されていると言っても過言ではなかった。
 武芸を好む王はけして気弱ではなく、暗愚でもなかった。にも拘わらず、国王が女色や鷹狩りに異常なほど没頭するのは、王妃の外戚に実権を握られ、王とは名ばかりの傀儡に甘んじている鬱積からかもしれなかった。政治に無関心というよりは、むしろ王が領議政に政から遠ざけられているといった方が正しいともいえた。
 王は気の強い王妃に頭が上がらず、王妃の尻に敷かれた状態だ。最近では領議政が
ー羅氏にあらずんば人にあらず。
 と宴席で言ったとか言わないとか、噂になった。
 その領議政は王妃の父であり、王妃は国王との間に一男三女をあげている。末子益善大君は世子に冊立されており、国王の舅というだけでなく、未来の国王の外祖父となることも約束されていた。
 領議政自身は政治を私してはいるものの、政治家としてはベテランであり、有能な人だ。だが、本家の跡取りである次男は父親の威光を傘に着て傍若無人の言動が多い。
 先日も姉の王妃を訪ねた時、女官の態度が悪かったとその場で女官を斬ったことが物議を醸したばかりだ。普通なら、王の女とされる女官を斬ったなぞ許される仕儀ではない。しかも、その理由というのが、次男が女官の尻を触ったことに憤慨し、抗議したからだというのだから、お粗末すぎて話にもならない。
 次男はかねてから美しいその娘に執心していたが、娘が相手にしなかったため、恨みに思っていたのもあったらしい。
 だが、国王は義弟にも当たる羅氏の次男坊を表立って咎めることはなかった。
ー世も末ではないか。
 心ある人たちは寄ると触ると、その話でもちきりだった。
ー羅の一族であれば、鬼畜なふるまいに及んでも許されるのだ。
 まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いなのは、ひとえに羅氏が王室の外戚であるからだ。
ーこのままでは、朝鮮は羅氏の者たちに食い荒らされてしまうのではないか。
 気随に振る舞うのは何も本家の次男だけではなかった、羅氏と名乗る者であれば何でも許されると勘違いしている不心得者もけして少なくはなかった。
 今をときめく羅の一族に対する憤懣は、見えない場所で静かに、しかしながら確実に降り積もっている。そして、それは水温む春が来ても溶けない根雪のように確固としたものになりつつある。そのことを、羅氏の人々はまだ知らなかった。
 今日の嘉礼もまた我が世の春を謳歌する羅氏の繁栄ぶりを人々に見せつけるかのようであった。脇腹とはいえ、王の姫を賜るのは両班にとってはこの上ない栄誉である。
 しかも、王女の良人となるのは、領議政の末子、兵曹判書の一人息子であり、この息子は去年の科挙では最年少で首席合格したという天才だ。羅氏の繁栄は一体どこまで続くのかと世間は好奇心と羨望の混じった視線で注目している。
 それにしても、新郎はとっくに入場しているというのに、肝心の花嫁が姿を見せないとは! 流石に参列者も異変を感じ、ざわめき始めた矢先、漸く新婦が到着した。
 相当に気を揉まされた進行役は、気の毒なことに汗だくになっている。実のところ、花嫁到着で一番ホッとした表情をしたのは、この進行役の男であった。
 進行役はここぞとばかりに意気込んで声を張り上げた。
「新婦入場」
 声を合図とし、今日という晴れの日のもう一人の主役が登場する。新婦の両側には介添え役の女性が並ぶ。一人は王宮から遣われされた尚宮であり、もう一人は王女付きの若い女官である。
 花嫁は眼にも彩な婚礼衣装に身を包んでいる。美しく化粧を施した面は緊張のためか、表情らしい表情はなく固い。
 花嫁の神々しいまでの美しさに、居並んだ人々から賛嘆の溜息が洩れた。
「何と美しい花嫁だこと」
「仙界に棲まう天女もかくやと言わんばかりではないか」