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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 だが、何故なんだろう。どうして、彼女は警告したのか?
 チュソンは改めて今日の会話をまた思い起こしてみる。けれども、どこにも疑問の手がかりになりそうなものはなかった。
 チュソンは独りごちた。
「違う、そうじゃない」
 今日の彼女とのやり取りには、恐らく取っかかりはなかったはずだ。あるとしたらー。
 彼は眼を瞑り、思案に沈んだ。
 ふいに、幼い女の子の声が耳許で聞こえた。
ー嘘つきだから。
 チュソンは眼を開けた。そうだ、十年前のあの日、自分は彼女に勇敢だと褒め称えた。小さな身体で物怖じもせず、セナを庇った勇気を褒め称えたのだ。
 あの時、彼女は自分は嘘つきだと言った。
 チュソンはまた眼を閉じ、はるかな記憶を手繰り寄せる。
 次いで、彼女は言った。
ーあなたには判らない。
 そのひと言の意味は今もって知れない。自分を嘘つき呼ばわりする理由なのか、はたまた、彼女自身を理解できないと言ったのか謎である。
 だが、そこは問題ではなく、大切なのは次だろう。
ー幾ら善人ぶってみても、私は世の中の人すべてを騙して生きているんだもの。その罪は一生続くんだよ。
 確か、こんな科白ではなかったか。
 あのときはチュソンも幼く、深く意味を突き詰めて考えることはなかったけれど、わずか八歳の女の子が口にするには妙な科白だ。
 善人ぶるとは、どういう意味なのか。世の中の人すべてを騙して生きているというのは、先の?嘘つき?と同じ意味なのだろう。
ーその罪は一生続く。
 判らない。チュソンは両手でわしわしと頭をかいた。これまでたくさんの科挙で出されたという難問を解いてきたが、チュソンにとっては頭を抱え込む程度ではなかった。学問の師すら解けない難題をいとも易々と解いてみせたものだ。
 だが、王女の謎の科白だけは読み解けない。
 恐らくは、と彼は考えた。彼女は何か重大な秘密を抱えている。
 その秘密というのが他人には話せないもので、自分を嘘つきだ偽善者だと言わせているのだろう。
 彼女の秘密というのは、何なのか。
 自分の危険も顧みず渦中に飛び込んでゆく彼女のことだ、偽善者や嘘つきといった言葉からほど遠いのは判る。にも拘わらず、一生続く罪を犯しているとまで言わねばならない哀しみと不幸を彼女はずっと背負ってきた。
ーあなたには判らない。
 彼女に言われた時、チュソンは咄嗟に思ったものだ。
ー知らないというなら、僕はあなたのことが全部知りたい。
 今でも、その強い想いは少しも変わらない。 あの頃から彼女の心は大きな二つの感情のあいだで危うい均衡を保っているように見えた。無邪気な年相応の少女らしさ、年よりはるかに老成した諦め、虚しさ。
 彼女の愛らしい顔に時折、落ちる翳りは相反する二つの感情のなせる技だったのではないか。
 今日、彼女自身から生母の不幸な死に方を聞いて、翳りの理由は王の娘として生まれながらけして幸福といえなかった生い立ちにあるのかと考えた。でも、どうやら自分は間違っていたようだ。
 彼女が見せる翳りは、生い立ちが原因ではない。もっと別の何かが彼女を追い詰めている。
 八歳の彼女が見せた哀しそうな表情を見て、彼は決意したのだ。
ーあなたの笑顔は僕が守りたい。
 あの時、彼は彼女と同じ八歳だった。子どもだった自分は彼女を守るどころか、探そうにも探せず、結局、諦めた。
 もう二度と彼女には会えないと諦めていた矢先、宮殿で再会したのだ。もっとも、姉姫と投壺をして遊んでいる時、彼はあの美しい妹姫をパク・ジアンだとは思いもしなかった。
 一度は諦めた初恋は、まもなく考え得る最高の形で実ろうとしている。
 彼女と我が身は縁が無かったように見え、その実、しっかりとした縁で結ばれていたともいえる。ならば、神仏が与え給うた縁を今一度ここで、しっかりと結び合わせたい。
 彼女を全力で守ってゆく。
 チュソンは固い決意を漲らせながら、頭上の藤棚を見上げる。純白の花、薄紫の花、花また花が藤棚を飾っている。物言わぬ花たちは何を考えているのだろうか。それとも、やはり花たちもこの時間、深い眠りについているのだろうか。
 夜もかなり更けてきて、夜気はいっそう冷え込んできたようだ。
 チュソンは足音を立てて使用人を起こさないよう、気配を殺して自室に戻った。
  
   祝言

 その日はチュソンが考えていたよりは早く訪れた。何しろ、結婚の準備で余計な物想いに耽る時間もなかったというのが正直なところである。
 単に釣り合いの取れた両班家から嫁を迎えるのとは、訳が違う。日陰の王女と陰口を叩かれてはいても、央明翁主は現国王の紛れもない娘なのだ。
 王女の良人はいわゆる?附馬?と呼ばれる。これは王の娘婿といった意味合いだ。附馬となれば名前だけの名誉職を与えられ、安穏な暮らしと引き替えに生涯、政治に携わることは叶わない。
 それでも、チュソンにはひと欠片の後悔もなかった。父はこの結婚を認め、全面的に祝福してくれているものの、母は相変わらずチュソンと話そうともしない。母にすれば、相応の両班家の娘を嫁にし、息子夫婦と同居できるとばかり思っていたのだ。しかも、将来を期待した息子は附馬となり、あっさりと栄達を棒に振った。
 何から何まで、母の期待を裏切ることになってしまった。自分はつくづく親不孝だと思う。だが、チュソンは母と結婚するのではない。長い人生を共に歩く伴侶は、自分で選びたかった。王女を頂くからには、もとより両親との同居はないが、この結婚に賛成ではない母との同居を回避できたのは、かえって幸いだったのかもしれない。
 母は悪い人ではなかった。むしろ人一倍、愛情深い母であった。が、感情の起伏の激しいひとではある。王宮で生まれ育った王女は一般の両班家で育った娘とはやはり違うだろう。王女を嫁に迎えるというのは、あらゆる意味で普通の結婚とは異なる。
 本来は舅と姑となる義両親も嫁は元王女と敬い、一歩引かねばならない。母も名家の息女として大切にかしずかれて育ったお嬢さまだ。誇り高い母が息子の嫁に頭を下げるのは屈辱でしかないだろう。
 婚儀は新居ではなく、父の屋敷で行われる。その日は国王も出御される予定で、既に王の乗った鳳輦は定時に王宮正門を出発したとの知らせが入っていた。
ー中殿さまは御気色悪しく、残念ながら参列されず。
 とのことも前もって知らされている。ただし、チュソンは一昨日、王宮での勤務を終えた後、中宮殿に参上した。王女との結婚の挨拶をするためだ。
 その際、伯母は元気すぎるほど元気で、別段、常と変わったところはなかった。既にその時、王妃の不参加は決定済みであった。
 チュソンは内心、呆れる想いで、それでも態度だけは礼儀正しく伯母に愛娘との結婚を認めてくれた礼を述べたのだ。
 対して伯母はコロコロと笑いながら
ー翁主は一歳で母を亡くし、私も実の娘と思うて慈しんで参った。そなたのように前途洋々たる若者と添えることができて、愛娘を嫁がせる母としてこのように嬉しいことはない。また、羅氏と王室がここで新たに縁を結べば、双方共にますますの繁栄となろう。
 機嫌良く言った。
ー何が愛娘だ。