裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】
「十年ぶりに話したあなたは、少しも変わっていませんでした。あのときもあなたは正直に自分の気持ちを話してくれましたね。大男の八百屋が怖くて、セナを助けようとしても身体が竦んで動けなかったとありのままに打ち明けました。そして今も、幼い日と同様に、自分を飾りも偽りもしなかった。そんなあなたの笑顔がとても尊く美しいものに見え、私もこんな子と友達になれたら、毎日が愉しいだろうなと考えました」
チュソンは勢い込んだ。
「だったら! 私たちは結婚して夫婦となったとしても、上手くゆくのではないでしょうか」
王女はかすかにかぶりを振る。
「友達と夫婦は根本から違います。叶うことなら、私はあなたと友達になりたかった。男だとか女だとか、王女であるだとか、そんなこの世の柵(しがらみ)から関係ないところで、あなたと友達として肩をたたき合い、存分に話してみたかった」
王女の眼にかすかに光るものがある。泣いているのだろうか。チュソンは狼狽えた。
「申し訳ありません。初対面同然なのに、私が強く迫りすぎてしまったようです。押しつけがましい男は余計に嫌われますよね」
王女は人差し指で涙をぬぐった。その仕草がまた何とも艶めいている。十八歳といえば、まさに大輪の花が大きくひらく年頃だ。
王女の美貌は触れなば落ちんという熟れた果実というより、この白藤のように凜とした清冽さを際立たせている。
あまりに清らかすぎて近寄りがたいという男もいるだろう。しかし、チュソンは、そんな彼女だからこそ白い藤の花房に魅せられた蜜蜂のように近寄って触れてみたいと思わずにはいられない。
「誤解しないで。私が縁談をお断りして欲しいのは、あなたを嫌っているからではなく、むしろ好ましいと思っているからです。あなたのためを思うからこそです」
チュソンは力強い声で言った。
「そのお言葉を聞いたからには、尚更諦めることなどできません」
王女がまた淋しげに笑った。
「あとで後悔することになっても知りませんよ」
チュソンは、その言い方に引っかかりを憶えながらも言った。
「後悔などしません」
それから、躊躇いがちに手を伸ばし、王女の白いほっそりとした手を取った。刹那、王女がビクッと身を震わせ手を引っ込めようとする。しかし、彼は敢えて手を離さなかった。
「ただ、あなたをお守りしたいだけなのです。
いつか私の心をご理解頂けるように、全力を尽くすとしましょう」
「ー本当に、後悔しますよ」
美しき王女はたったひと言残し、踵を返した。そのか細い背中はもうチュソンが何を言おうとも受け付けようとしない頑なさが滲み出ていた。
チュソンは頭上を振り仰ぐ。今まで王女が熱心に眺めていた白藤がひっそりと彼を見下ろしている。
叶うなら、あの花になれれば良いものを。さすれば、恋い焦がれる女人を熱い瞳でずっと見つめていられる栄誉を手にできるのに。
チュソンは未練がましく、いつまでも藤棚の下に立っていた。
王女に付いてきた女官は、チュソンたちの帰りが遅いので、かなり気を揉んでいたらしい。王女よりやや遅れて戻ったチュソンは、丸顔の女官から怖い顔で睨まれた。
今日の予定はこれで終わり、王女は宮殿に輿で戻る。チュソンは馬で正門前まで送り届け、王女を乗せた女輿が正門を入るのを名残惜しい想いで見送った。
その夜。チュソンは自室で布団に入ってからもなかなか寝付かれず、悶々とした。
一つには、ついに意中の女人と対面できたこと、もう一つは何と言っても、王女が十年前に出逢った初恋の少女パク・ジアンであったこと。それらが彼をして興奮させていたのだ。
だが、歓びの余波とはまったく別に、チュソンは何か釈然としないものを感じ始めていた。
今日のやり取りを最初から反芻してみる。最初は王女にとって、自分は結婚をごり押しする嫌な男でしかないのだと思い込んでいた。けれど、どうやら王女は自分をそこまで嫌ってはいないらしい。
むしろ、最後の方には、好ましいと思っているとまで言ってくれた。つまり好きとまではゆかなくても、好意は寄せて貰えているということだ。
なのに何故、彼女はチュソンに縁談を断れと勧めるのか? 彼女が言うように、附馬となれば、生涯、政治の表舞台には出られないし、出世も閉ざされる。しかし、これはすべてチュソンが納得の上なのだから言うことはない。
王女自身が自分を日陰の花に例える場面があり、あれが身を引こうとする理由かもと考えかけたけれど、どうも、しっくりこない。確かに要素の一つにはなるかもしれないが、決定的理由としては薄い気がする。
ーあとで後悔することになっても知りませんよ。
別れ際に彼女が残したあの科白こそが、重要な手がかりになるような気がする。
とはいえ、何を後悔する理由があるというのだろう。身分が高ければ高いほど、相思相愛で結ばれるのは難しくなる。仮に王女が本当に自分を好ましいと思うなら、男側の自分がここまで彼女を欲しいと言うのだ。滅多にないくらい理想的な結婚のはずである。
彼女にしてみても、いつまでも嫁がず、王室の厄介者として後宮の片隅でうち捨てられる暮らしよりは、嫁ぐ方がよほど良い。王女の中には生涯を独身で通す方もごく僅かではあるがいる。しかし、大概は若い頃に国王が定めた相手に降嫁するのが倣いだ。
降嫁先はやはり名門両班家が多く、附馬として白羽の矢が立つのは科挙の首席合格者、或いは優秀な成績で合格した若者が目立った。
ー何故なんだ?
チュソンは何度目かの寝返りを打ち、ついに布団に身を起こした。四月下旬の深夜はまだ肌寒い。彼は室の明かりをつけ、ついでに手燭を点した。
上着を肩から羽織り、室の扉を開けて廊下へ出る。手入れのゆき届いた廊下を辿ると、やがて廊下は吹き抜けの回廊になる。
彼は回廊に座り込み、傍らに引っ繰り返さないように用心しながら手燭を置いた。
今宵は月もない闇夜だ。ほのかな明かりに、前方が照らし出された。
母自慢の藤棚には、白い藤と紫の藤が絡みつき、重たげな花房をたわわにつけている。かなり濃厚な芳香が漂うのは、花の香りに違いない。
このふた色の藤を彼女と眺めるのを楽しみにしていたけれど、王女を頂くからには、この屋敷で両親と同居というわけにはゆかない。チュソンは結婚と同時に家を出て、あの新居に移って新たに一家を構えることになる。
だが、あの屋敷にも白い藤が咲いている。祝言は既に来月の十日と決まっている。それでも自分は王女の気持ち次第では辞退しようと考えていたし、王女は断って欲しいなどと言ったが、既に断れる段階は過ぎてしまっている。
我が家のこの藤も見事だけれど、新居の白藤もなかなかのものだ。祝言の日、藤はまだ咲いているだろうか。晴れて夫婦となって彼女とあの美しい藤棚を眺めるのが心待ちでならない。
けれどー。チュソンには、どうしても王女の頑なさに不安を感じてしまう。
ー本当に、後悔しますよ。
最後に彼女が発した言葉が耳奥でありありと蘇った。
あの科白にはチュソンへの警告が含まれていた。とはいえ、脅すとか、嫌悪しているとか、負の感情はまるで感じられなかった。むしろ、チュソンを気遣い、真心から案じているような響きさえあった。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】 作家名:東 めぐみ