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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「揚げ菓子には、桃が細かく刻まれて練り込まれていました」
 チュソンの中で閃くものがあった。
「お母君は桃に対して拒絶反応を示す特異体質であられた?」
 王女が薄く笑う。
「流石は天下の俊英ですのね。大抵の方は、ここまでお話ししても理解はできないと思います」
 王女はまた他人事のように平坦な口調で話し始める。
「おっしゃる通りです。母に仕えていた尚宮は、母の乳母です。その者が言うには、母は幼い頃から桃アレルギーがありました。普段は健やかそのものなのに、何故か桃を少しでも食べると身体中に発疹が出て、苦しみ始めるのです。食べるだけでなく、桃の樹に近づいても食べるほどではなくても、身体がかゆくなったりするので、母の両親はかなり気を遣っていたとか」
 チュソンは唸った。
「中殿さまは、お母上の桃アレルギーを知っていたのでしょうか」
 王女はかすかに首を振った。
「判りません。何しろ、もう十七年前の出来事です。桃アレルギーについては、あまり外聞も良いことではないと母本人も母の両親も他人に語った憶えはないと乳母は話していました。ゆえに、王妃が母の秘密をどうやって知ったのかも謎ですし」
 王妃という立場にある伯母だ、人を使えば淑媛の秘密を暴き出すことなぞ、造作もなかったろう。
 だが、チュソンは到底、自分の口から言う気にはなれない。また聡明な王女のことだから、その可能性はとうに考えたはずだ。
 チュソンは溜息交じりに言った。
「偶然にとしては、いささか出来すぎているのは確かだ」
 重度の桃アレルギーを持つ側室。その側室に王妃が桃入り菓子を下賜し、側室は亡くなった。単なる偶然で片付けるには、きな臭い話だ。
 しかし、当時、事件は大事にはならなかっただろう。たまたま贈った菓子に桃が入っていたとしても、死んだ側室が桃アレルギーであったのを知る者は身内以外にはいなかった。
 ならば、王妃が側室を殺す意図があって、桃を贈ったはずもないと結論づけられるのは当然だ。不幸な偶然、悲劇として処理されてしまった。
 王女がチュソンを見ながら言った。
「父が私に距離を置くようになったのは、そのときからです」
 淑媛が変死するまで、国王はしばしば淑媛の許に通っていたそうだ。日ごとに愛らしく育つ娘の存在にも眼を細めていた。
 しかし、淑媛の死を境に、お渡りは絶えた。王女はそこからは語らないが、チュソンにはすべて理解できた。
 国王は愛娘が淑媛の二の舞になるのを怖れたのだ。自分が王女を可愛がれば可愛がるほど、王妃は嫉妬のほむらを燃やす。次は小さな淑媛の忘れ形見までもが王妃の毒牙にかかるかもしれない。
 少なくとも、国王が娘に対して関心を失ったふりをすれば、王妃に余計な刺激を与えずには済む。だとすれば、国王は王妃が淑媛を殺害したと知っているか、そこまでゆかなくても、疑念を抱いているということになる。
「ある歳まで、身体の弱い母が私を産んだことで生命を早めたのだと信じていました。私に真実を教えてくれた尚宮も既にこの世の人ではありません」
 チュソンは言葉もなかった。王女に比べて、両親も揃い、母にはいささか過保護なほど溺愛されていた。自分は何と贅沢な環境に身を置いていたのかと恥ずかしくなる。
 王女が微笑んだ。
「吏曹正郎さまにとって、中殿さまは血の繋がった伯母君です。信じがたいどころか、気を悪くされるお話でしょう」
「いいえ」
 真顔で言ったチュソンに、王女が瞠目する。
「翁主さまがご存じかどうか。私の父と中殿さまは同母の姉弟ではありません」
 王女は首を振った。
「存じませんでした。そうなのですね」
 チュソンは恥ずかしげに言った。
「領議政を務めている祖父は、まだ前の奥方の喪も明けやらぬ中に私の祖母と再婚したのです。しかも、私の父が生まれたのは祝言の三ヶ月後でした」
 チュソンは肩をすくめた。
「翁主さまの前でこのような下品な話はするべきではないと思います。ですが、それが事実です。当時、世間では、祖父と祖母について耳を覆いたくなるような醜聞が広まっていたとか。確かに結果だけ見れば、言い逃れはできないことです」
 彼は溜息をついた。
「中殿さまがお祖父さまや祖母を恨むのも満更、理解できなくもない心境です」
 王女が黒い瞳で彼を見た。
「中殿さまが吏曹正郎さまのお父君に対して複雑な感情を抱いていたとしても、何の不思議もないですね」
 複雑な感情とは、随分と手加減した表現だ。チュソンは自嘲気味に笑った。
「祖父は前妻がまだ寝込んでいた頃から若い女と懇ろになっていた。先妻の娘の中殿さまからすれば、祖父の愛を自分の母から奪った私の祖母はそれこそ殺してやりたいほど憎いでしょう。祖母が産んだ父の存在もしかりです」
 チュソンは声を低くした。
「畏れ多いことですが、我が伯母ながら、中殿さまは気性の激しい方です。翁主さまのお母君のご不幸についても、あの伯母であれば、やりかねないと思います」
 王女が笑った。
「気を悪くされなくて、よろしかったですわ。これで、お判り頂けたでしょう」
 チュソンは首を傾げた。
「何がでしょう?」
 王女が焦れったそうに言った。
「私を妻になさったとしても、あなたの前途には何の得にもなりません。国王殿下は本心はともかく、上辺は私に見向きもせず、王妃からは疎んじられている。母は商家の出身ですから、母方の実家はあなたの後ろ盾とはなれません。何より、附馬になれば、あなたは一生王室の飼い殺しとなります」
 チュソンも微笑んだ。
「私も附馬がどのような扱いを受けるかくらいは知っていますよ」
 王女は言い募った。
「では、何故なのですか? あなたは去年の科挙では最年少で首席合格なさったと聞いています。領議政を祖父に、兵曹判書を父に持つあなたなら、これから望むだけ出世できるでしょう。無理に日陰の王女を妻に迎え、輝かしい出世の道を自ら閉ざす必要はないのでは」
 チュソンは王女の黒瞳を見つめながら言った。
「先刻も申し上げたはずです。私はあなたをお慕いしています。あなたが十年前に出逢ったあの少女であると知った今、諦めるという言葉は私にはないのです。あなたが私を疎んじていたとしても、私は諦めない」
「たとえ出世を棒に振ったとしても、附馬の立場に甘んじると?」
 彼は、きっぱりと断じた。
「甘んじるのではありません、私自身が選ぶのです。自分で生きる道は自分で決めるし、共に人生を歩く伴侶も同じです」
 王女が呆れたように首を振った。
「私はあなたを疎んじているわけではありません」
 チュソンは俄に熱を帯びた瞳で王女を見た。
「では、私は少しは期待を持っても良いのですか?」
 王女がまた、遠くを見つめるような、はるかな瞳になった。
「私自身、十年前、あなたと下町で過ごした日は愉しかった。あなたと話していると、宮殿での嫌なことも全部忘れられました」
 王女がひそやかに笑う。まるで二人の頭上の白藤が風にそよぐような笑みだ。
 チュソンは知らず、彼女の笑顔に見蕩れる。