裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】
黙り込む王女に、チュソンは続ける。
「それに、私たちは別の意味でも初対面ではありません。十年前、私とあなたは下町で出逢い、色々な話をしました。私はあなたが白藤を好きなことも知っていますし、亡くなられた母君が白藤を愛されたこと、あなたがお生まれになった朝も白藤が咲き匂っていたお話もお聞きしました」
華奢な女の子なのに、身の危険も顧みず、八百屋にぶたれた年上の子どもを助けようとしたことも、見かけに寄らず、お転婆だったのも知っている。
チュソンは静かな声音で告げた。
「私はここに来るまで、この婚姻について、あなたがどう思われているかを訊くつもりでした。私は確かにあなたをお慕いしていますが、あなたの気持ちは判らない。もし、私の一方的な想いであれば、かえって、あなたを苦しめるだけだから、お気持ちを確かめた上で辞退せねばならないと考えていたんです」
王女が不安げにチュソンを見た。
「では、断って下さるのですね」
チュソンは彼女に視線を当てたまま言った。
「いいえ」
王女が眼を瞠った。
「何故ですか、先ほど、あなたは私が嫌なら断るとおっしゃったではありませんか」
チュソンはきっぱりと言った。
「それは、あなたが央明翁主さまであればの話です」
王女が囁くような声で言った。
「私は央明です」
チュソンは静かに笑った。
「もちろん、知っています。あなたが偽者などだとは思っていませんよ。翁主さま、私がこの縁談を断らないと決めたのは、あなたが央明翁主さまである前に、パク・ジアンだからです」
「ー」
王女がふっと眼をそらす。やはり、自分はこの王女に嫌われているのか? 気弱になりかけた自分を叱咤し、チュソンは続ける。
「私にとって幼い日に出逢ったパク・ジアンという少女は、永遠の憧れなのです。あなたには理解できないでしょうが、馬鹿みたいに何年もパク・ジアンを探し続けました。あなたに出逢った二年後、政変に巻き込まれてしまった父が全州の県監として地方へ下りました。私も父と一緒に都を離れました。それから都に戻るまでの年月はとても長かった。地方にいて都の人捜しはできません。去年、科挙を受験するために全州からはるばる都に出てきた短い滞在でさえ、私はパク・ジアンを探していたんです。祖父には笑われました。受験生なのに、勉学もそっちのけで毎日、外をうろついているとね」
チュソンは王女の白い顔を見つめた。
「あなたがあのときの少女なら、私は諦めるつもりはありません」
そう、央明翁主がパク・ジアンだと判った今、この縁談を辞退するという選択肢はチュソンにはない。
王女の白皙は今や、血の色がなかった。チュソンは王女がこのまま倒れるのではないかと心配した。チュソンの母は何かというと、すぐに失神する。
やはり少しきつく言い過ぎただろうか。彼女の言う通り、自分たちは初対面ではないにせよ、近いことは事実だ。なのに強引に迫り、一方的な想いを押しつけすぎたという自覚はむろんあった。
「申し訳ありません。つい、あなたに辛く当たってしまいました。ですが、この恋を諦めるつもりがないのは本心です」
チュソンはひと息つき、また話し出した。
「ですから、どうか長い眼で見て頂けませんか? 私は良き良人になるように努力しますよ。一生全力であなたをお守りしますし、あなたが幸せになれるよう力を尽くします」
王女がフッと笑った。
「十年前はそんな風には見えなかったのに、あなたはとんだ頑固者ですね」
「あなたこそ」
チュソンも笑った。二人の周囲の空気が心なしかやわらかくなった。
「あの時、私がとれだけ肝を冷やしたことか。自分よりか弱い女の子が向こう見ずにも大男の前に飛び出していったんですから」
王女が遠くを見るような瞳になった。
「でも、あの時、私が飛び出さなければ、可哀想なセナは八百屋のおじさんにしこたま殴られていたでしょう。下手をすれば、セナは最悪、死んでいました。どうしても見過ごしにはできなかった」
あの後、セナが屋敷を訪ねてくることはなかった。彼女が今もこの広い都のどここかで逞しく生きているのを願うばかりだ。チュソンは頷いた。
「ええ、その通りです。実はあの時、私もセナが八百屋に殴られるところを最初から見ていたんです。盗みを働くのは確かに悪いことではありますが、あんな小さな子相手に屈強な大人が力加減もせずに殴るのは感心できません。あなたの言うように、もしかしたら、二発目にはセナは打ち所が悪くて死んでいたかもしれない。一発目より更に、あの男は頭に来ているようでしたから」
ですから、と、チュソンは言う。
「ここは男子たる自分が出てゆかねばならない。そう思っても、情けないことに両脚がすくんで前に踏み出せないんですよ。こんなことでは駄目だと葛藤している中に、先にあなたが華麗に登場したというわけです」
王女がクスリと笑った。
「華麗ーですか」
チュソンも笑いながら頷いた。
「ええ、格好良かったですよ。子どもの私だけではない。あの場には大勢の野次馬がいましたけど、大の大人も誰一人としてセナを助けようとはしなかった。なのに、大男の鼻息だけで吹き飛びそうな小さなあなたが堂々とセナを身を挺して庇い、あの八百屋と渡り合ったんです」
王女はクスクスと笑っている。
「幾ら何でも、鼻息で飛びはしないでしょうに」
チュソンはほのかな熱を宿した瞳で王女を見つめた。
「まさに、女神降臨ってね」
王女は声を立てて笑った。まるで白藤が初夏の風にそよぐような声だ。美しいひとは声までもが綺麗なのかと思ってしまう。
「女神降臨ですか。科挙に最年少で合格というから、本の虫のガリ勉かと思いましたけど、あなたは面白い人ですね」
チュソンが白い歯を見せた。
「そんなに私は勉強しかしない、面白みのない男だと思われていた?」
王女は大真面目に頷いた。
「はい。度の強い眼がねをかけた、冴えない堅物男かと想像していました」
チュソンは声を上げて笑った。
「そいつは酷いな、あんまりだ。人を先入観だけで見てはいけないと、幼い頃に大人から教えられなかったんですね、あなたは」
チュソンが王女を見つめる眼が切なげに細められる。
「私が惚れたのは、あなたの勇気です」
「勇気?」
チュソンは頷いた。
「ええ。小さな身体で倍以上もの大男に向かっていった勇気、セナを自分の身体で庇おうとした正義感。私には持ち得ないものでした。そんじょそこらの女の腐ったような男より、よほど男気があった」
王女が微笑んだ。
「そんな風にたいそうなものではありません。ただ夢中で、あのおじさんの前に出ていっただけです」
チュソンは優しく言った。
「あなたはそう言いますが、なかなかできないことですよ」
チュソンは考え考え、言葉を紡いだ。
「あなたは私たちが希薄な関係だとおっしゃいました。確かにそれは間違いではないけれど、私は十年前のあの日、パク・ジアンという女の子の勇気に惚れ込んでしまいました。あなたの外見の美しさにも惹かれますが、何より強く魅せられたのは、あなたの心の美しさなのです」
王女はチュソンの言葉に聞き入っている。何を考えているのかは、美しい面からは窺えなかった。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】 作家名:東 めぐみ