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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 チュソンは少し遅れて付いてくる王女を振り返った。そのときだった。
 王女が初めて声らしい声を上げた。
「ー綺麗」
 呟くなり、走るように進んでゆく。チュソンは慌てた。
「待って下さい」
 一体、何なんだ? 幾ら王女とはいえ、使用人たちに対して笑顔一つ見せるわけでもなし、今度はいきなり走り出すのか?
 どうやら見かけと異なり、風変わりな娘のようである。チュソンは少し認識を改めなければならないのかもしれなかった。
 それで王女に対する気持ちが冷めるということはないけれど、これから両班家の夫人としてやってゆくからには、彼女も周囲に合わせるということを知る必要がある。
 降嫁すれば、彼女はもう王族でもないし、臣下の妻となる。奥方として一家を切り盛りしなければならないし、そのためには使用人たちと上手くやってゆかなければならない。
 いつまでもツンとお高くとまっていたのでは、使用人の心を掴むどころか、逆に反発されるだけだ。急に環境の変化を受け入れるのは難しいかもしれないが、少しずつでも馴染んで貰おう。
 王女はチマの裾をからげて駆けてゆく。
ーお転婆なのか?
 チュソンは少々面くらいながらも、それはそれで悪い気はしなかった。澄まし返っているよりは、元気がありすぎるくらいの方が良い。
「一体、何なんですか?」
 王女の脚はかなり速かった。やっとのことで追いついたチュソンは呼吸(いき)が上がっている。正直、学問は得意だけれど、武芸はあまり得意とはいえない。これからは大切な妻を守るためには、多少武芸をたしなんだ方が良いだろうか。
 漸く人心地ついた彼は、少しの距離を置いて立つ王女を見つめた。彼女は一心に何かを見上げている。その視線の先には、満開の白藤があった。
 まったくもって見事な藤棚である。白い小さな花が無数に集まり、一つの大きな花房を形作っている。そんな花房がまた数(あま)多(た)に密集して、まさに藤のカーテンがそこに広がっていた。
 王女はただ声もなく、頭上を仰ぎ見ている。そこで漸くチュソンは合点がいった。彼女は藤の花が好きなのだ。
 刹那、記憶の底からしきりに訴えかけてくるものがあった。     
ー藤の花が好きなの? 
 彼は彼女に訊いた。
 八つの年、町中で出逢った少女、子どもながら早くも整った美貌、彼女が纏っていた鮮やかな緑のチマに刺繍されていた白藤まで思い出せる。
 もしや。チュソンは予感に胸を轟かせ、熱心に白藤を見つめる王女を眺めた。
 情けなくも、興奮で声が上ずりそうになる。
「翁主さま、一つ、お訊ねしても良いですか?」
 王女がつと振り向いた。チュソンは一語、一語、噛みしめるように言葉を発した。
「あなたはもしや、あのときの女の子ではありませんか」
 王女が訝しげに細い眉を寄せる。
「あのときーとは」
 チュソンは勢い込んで言った。
「パク・ジアン」
「ー!」
 王女が息を呑むのが判った。やはり、あの娘(こ)なのだ。十年前の晩秋、下町で出逢った美少女こそが央明翁主だった!
 まさに二重の幸運ではないか。歓びが沸々とこみ上げてくる。
 チュソンは湧き上がる衝動を抑えた。
「ずっと探していました。あのときのあなたが忘れられなくて、パク・ジアンという女の子がいる両班家はないのかと探し回っていたんです」
 見つかるはずはなかったのだ。パク・ジアンという少女は本来は存在しなかった。あの少女の正体は、宮殿に棲まう央明翁主だったのだから。
 そういえばと、今更ながらに思い当たる。都の冬に降り積むような雪肌、黒曜石を思わせる輝く双眸、朱を点じた唇は、まさしくあの美少女と同じだった。何故、最初に見たときに気づかなかったのか。後宮で見たときは少し離れていたから仕方ないとしても、今日、真っ先に気づくべきだった。
 王女はまた黙り込んでしまった。まるで取り付く島もない態度だ。チュソンは言葉を選びながら言った。
「失礼ながら、王宮ではお淋しくお暮らしと聞いています。まだ若輩者ゆえ、何かとご不便をおかけするやもしれませんが、一生涯、翁主さまをお守りし、必ずやお幸せにすると誓います」
 永遠にも思える沈黙を破ったのは、意外にも王女だった。
「何故ですか?」
 十年前にはよく喋った快活な少女だったと記憶しているが、性格が変わったのか? 今日の彼女は断片的な言葉しか喋らない。
「何故とは、どういう意味でしょう」
 本当に判らないので、チュソンは正直に言った。王女はまだ白藤を見つめている。
「何故、私を娶ると決められたのでしょうか」
「それは」
 あなたに惚れたからだとはいかに何でも、直截すぎる。言葉を選んでいると、いきなり王女が断じた。
「白馬の騎士にでもなったつもりですか」
「それはーどういう」
 今度はチュソンが訊ねる番だった。王女がゆっくりと視線を花から彼に移した。
「先ほど、あなたはおっしゃった。私が王宮で淋しく暮らしていたと。私が日陰の王女だと呼ばれているのは自分がよく知っています。だから、あなたは気の毒がって、私を妻に迎えようとなさっているのではありませんか」
 チュソンはつい声高になった。
「まさか! 幾ら何でも私はそこまでお人好しではありません。翁主さま、女人にとってもそうでしょうが、結婚は男にとって、己れの生涯を決める大切なものです。同情や哀れみだけで、人生の伴侶を決めるほど私は衝動的でも愚かでもありません」
 王女はじいっとチュソンを見つめている。ああ、この瞳だ。チュソンは十年前を思い出した。あの日の彼女の瞳も幾千幾億もの夜を集めたように澄み渡り、深かった。見つめられると、魂ごと彼女の瞳に吸い込まれそうな錯覚を憶えたものだ。
 彼女の整った面にかすかに微笑が立ち上った。チュソンは、彼女の花のような微笑から眼が離せない。
「申し訳ありません。吏曹正郎さまを侮辱するつもりはありませんでした。ただ」
 言いかけた彼女に覆い被せるように言う。
「祝言はまだとはいえ、私たちは婚約した間柄です。よそよそしい呼び方ではなく、どうぞチュソンとお呼び下さい」
 過ぎる日、吉日を卜して王室から羅氏の屋敷にも婚資が届き、またチュソン側からも王女へと結納の品々を届けていた。この儀式をもって、正式な婚約の成立とされる。
 王女が吐息混じりに言った。
「そのお話ですが」
 チュソンは次に来るべき王女の言葉を待った。王女がまた視線を白藤に戻した。
「この縁談、あなたから断って下さい」
「ーっ」
 チュソンは鋭く息を吸い込んだ。
 王女はまるで天気の話をするように淡々と言う。
「何ゆえ、あなたが私を望まれるのかは判りませんが」
 堪えに堪えていた激情が溢れた。
「惚れたからです」
 王女が眼を見開いて彼を見た。チュソンは一旦うつむき、また顔を上げた。
「あなたに惚れたから、私の父から中殿さまにお願いして翁主さまを賜るお許しを頂きました。それでは、理由になりませんか?」
 王女の声が弱々しくなった。
「あなたは今日が初対面ではないとおっしゃいますけど、現実として、私たちは初対面のようなものですし、お互いについて何も知りません。そんな希薄な関係で、何故、好きだ惚れたと言えるのですか」
「ひとめ惚れという言葉もあります」