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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 そういえば、と、チュソンは改めて思い出す。初めて見た日も彼女は緑の衣服を纏っていた。あのときは上が淡い緑で、チマは濃い緑というより上から徐々に緑の濃淡に染められていた。
 あの衣装も似合っていたけれど、今日の装いはまた格別に美しいーと思うのは惚れた弱みだろうか。緑のチマには手描きらしい白い大輪の花が大胆に咲き、上衣の裾には蒼い蝶がやはり描かれている。
 艶やかな黒髪は後ろで一つに編んで、やはり緑の髪飾りを付けている。どうやら、彼女は緑が好きらしいと、流石にチュソンも理解し始めていた。
 これから婚約者に何か贈るときは、是非、参考にしようと心に書き留める。
 さて、こんな場合、何と挨拶するべきか。チュソンはしばし迷った。
 できるだけ優しい印象を与えたくて、微笑を浮かべる。
「突然の結婚話に、愕かれたでしょう」
 もう一人の自分が囁く。何と我ながら、能が無い科白だ! しっかりしろ、自分。
 王女は女性にしてはかなり背が高かった。初めて見たときは遠目でよく判らなかったけれど、あのときも姉姫よりは頭一つ分、上背があった。
 央明翁主が姉姫に手取り足取り矢の投げ方を教えていたから、チュソンは央明王女が姉だと思い込んだのだ。しかし、婚約が内定後、チュソンは父から王女の生い立ちについて詳しく聞かされ、彼女が実はあまり幸福ではないのを知った。
 更に、出逢いの日、王女と一緒にいたのは妹姫ではなく姉姫で、央明翁主の方こそが妹だったのだと知ったのだ。
 央明翁主は何も言わない。特に不機嫌というわけではなさそうだが、薄く形の良い唇を引き結び、前を見つめている。
 チュソンは仕方なく言葉を継いだ。
「初めまして、というのも変ですね」
 その科白に、初めて王女が彼をまともに見た。チュソンは勇気を得て、また話し出す。
「実は私たちは、既に一度出逢っているのです」
「ーっ」
 王女には意外な言葉であったらしい。彼女の美しい面にはあからさまな驚愕が浮かんでいた。
 喋り過ぎる男は女人に嫌われると聞いた記憶がある。チュソンは急いて軽薄な男だと思われないよう、務めてゆっくりと話した。
「ふた月ほど前でしたか、私が任官して初めて王宮に上がった日です。父から中宮殿の伯母上に挨拶に伺うように言われていたので、後宮を歩いておりました。その際、あなたをお見かけしたのです」
 さて、どのような返答が返ってくるか。チュソンは楽しみに待ったが、しばらくして素っ気ない返事があっただけだ。
「そう、ですか」
 内心落胆と焦りを憶えるも、ここで撃沈するわけにもゆかない。これから夫婦として長い年月を連れ添う伴侶なのだ。互いによそよそしい関係では、チュソンだけでなく彼女にとっても不幸な結婚生活になるだろう。
 そこで、チュソンはふと思った。
 チュソンはもとより王女に恋い焦がれ、この結婚を望んだ。だが、王女の方は、どうなのだろう。恋愛結婚ではないのだから、今すぐ自分を好きになってくれと言うつもりはない。だが、顔を見るのも嫌だと言われるのでは、この先に見込みはないのだ。
 これまでは初恋が叶った歓びばかりに気を取られ、相手の気持ちまでは慮れなかった。しかし、夫婦となるなら、せめて嫌われていないことは大前提だ。
 チュソンは腹を決めた。機会を見て、彼女に訊ねてみなければならない。望まぬ結婚は、彼女を不幸にするだけだ。折角、父が纏めてくれた縁談が破談になるかもしれないが、彼女の意思を無視するわけにもゆかない。
「では、参りましょう」
 チュソンが先に立ち階段を上り始め、王女も後に続いた。最後に女官が続く。チュソンは途中で何度か振り返り、王女を気遣うのも忘れなかった。
 門をくぐると、予想外に広い敷地に立派な邸宅が建っていた。庭には使用人らしい男女が老若取り混ぜて十人ほど勢揃いしている。
 彼らは二列に向かい合い、恭しく頭を下げてチュソンと王女を迎えた。
 五十近い背の高い男が深々と頭を下げた。
「ようこそ、旦那さま。私が使用人頭を務めさせて頂くチョンスと申します」
 チュソンは愛想良く言った。
「こちらこそ、よろしく頼む」
 チョンスが慇懃に言った。
「早速、お屋敷内をご案内致します」
 チュソンはチョンスに案内され、屋敷に足を踏み入れた。王女と女官も続いた。
「こちらが旦那さまの書斎と居室です」
 チョンスは最初に屋敷の主人となるチュソンの居室に一行を連れてゆき、次に王女の居室に行った。
「こちらは奥さまのお部屋になります」
 四月のうららかな朝である。八角形に填め込まれた障子窓はすべて開け放たれ、脇に寄せられた淡い緑の帳がかすかな風に揺れていた。帳の傍らにはやはり濃い緑の蝶飾りが揺れている。
 女主人の棲まいらしい、瀟洒な雰囲気だ。室内の装飾はすべて緑で統一されていた。国王は王女に対して冷淡だというが、本当なのだろうか。チュソンは疑念を抱いた。
 娘の好みを知るからこそ、王は新居の内装も緑を多く使ったに違いない。
 チョンスは女性らしい華やかな内装の居室を横切り、改めて室内を見渡した。
「こちらが奥さまのご寝室になりますが、旦那さま、奥さま、どちらのご寝所にもお二人分の夜具をご用意致しますので、どちらでもお寝みになれます」
 使用人頭は特に他意はなかったはずだ。しかし、?寝所?というひと言は、少なくともチュソンには生々しい響きを与えた。寝所は閨ともいい、男女が親密な営みを交わす場所でもある。何か秘められた空間という意味合いがあるように思える。
 チョンスの不用意な言葉が王女に衝撃を与えてはいないかと心配になった。そっと王女を窺い見ても、整った横顔は静謐そのもので、特に変化はない。これでは自分一人が紅くなったり蒼くなったりしているようで、滑稽だ。
 チュソンは意識しすぎた我が身を恥じた。
 やはり、意中の女人との事実上の初対面とあっても柄にもなく浮かれているようだ。
 それから後も来客をもてなす小座敷や各部屋を案内され、最後に厨房に行った。
 厨房もかなりの広さがあり、立派な竈が幾つも並んでいる。厨房には数人の女たちが整列していた。先刻、表で見かけた顔もある。
 一番先頭の年かさの女が言った。
「ようこそ、旦那さま、奥さま」
 すると、後の女たちが一斉に頭を下げる。
 先頭の女が説明した。
「私はご当家の女中を纏める侍女頭のハンナと申します」
 チュソンは笑顔で頷いた。
「ハンナか、よろしく」
 ここでも、王女は何も喋らなかった。高貴な生まれ育ちの女(ひと)だから、こういうときにどう振る舞えば良いのか、知らないのかもしれない。
 厨房からよく磨き込まれた廊下を戻り、一同は屋敷の外に出た。チョンスが指を指す。
「あちらが庭になります。ここからは、お二人でごゆっくりとご覧下さい」
 若い二人に気を利かしたものと見える。チュソンはにこやかに言った。
「ご苦労さま」
 チョンスも笑顔で言った。
「では、私めはこちらに控えておりますので、ご用があれば何なりとお呼び下さい」
「ありがとう」
 チュソンは礼を言い、王女を伴い庭へ向かう。お付きの女官は流石に付いてこようとはしない。
「庭もかなり広いですね」