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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 ジョンハクには側室はいない。妻のヨンオクを愛しく思っているのもあるし、両親のさんざんな醜聞を見聞きしたことで、女遊びの罪深さを間接的に知りすぎたというのもある。幸いにも、一人息子は幼いときから神童と呼ばれる出来の良い子だ。しかも、家門を継ぐべき男子に恵まれた。
 これ以上、子を持つ気がないなら、側室など無用だ。良くも悪くも、父が派手な女関係を披瀝することで、ジョンハクに与えた影響は大きすぎたといえよう。
 中宮殿に到着するや、ジョンハクは扉前にいる女官におとないを告げた。女官が中に入り、ほどなく尚宮が慌ててやってくる。
「これは兵判大監」
 尚宮は王妃の弟に対して、丁重に頭を下げた。ジョンハクは鷹揚に言った。
「中殿さまにお取り次ぎしてくれ」
「畏まりました」
 尚宮はふくよかな身体を揺するようにして、また殿舎にとって返す。
 またすぐに両開きの扉が開き、尚宮が言った。
「こちらへどうぞ」
 彼は尚宮に導かれ殿舎に入った。艶のある廊下を経て控えの間に至る。控えの間では扉越しに尚宮が伺いを立てた。
「中殿さま、兵判大監がお見えです」
「お通しせよ」
 尚宮の先導でジョンハクは王妃の居室に足を踏み入れた。大輪の牡丹が色彩豊かに描かれた屏風を背に、王妃が牡丹色の座椅子にゆったりと座っている。
 王妃は五十代半ばのはずである。結い上げた艶やかな黒髪には白いものもなく、肌には依然として張りがある。美しく化粧した様だけでは、到底五十過ぎには見えず、せいぜいが三十ほどだ。
「そなたがわざわざ来てくれるとは、珍しいこと」
 歓迎なのか嫌みなのか判らない科白に、ジョンハクは曖昧な笑顔を返すしかない。
 ジョンハクは姉にしてこの国の王妃に対し、深々と頭を下げ文机を挟んで下座に座った。
「畏れ入りましてございます」
 畏まった物言いに、王妃がフと笑みを洩らす。
「実の姉と弟ではないか。そのように他人行儀にふるまう必要もあるまい」
 この姉が自分を弟だと思ったことなど、恐らく一度たりともないはずだ。そう思っても、本音は口に出せるはずもなかった。
「畏れ入ります」
 王妃がコロコロと笑った。
「そなたは畏れ入るしか言えぬのか?」
 ジョンハクもまた薄い笑みを浮かべた。
「良い歳をした大人ではありますが、いつまで経っても朴念仁のようで、申し訳ございません」
「朴念仁か、まさに、そなたには打って付けではないか」
 と、さらりと物凄く失礼なことを言ってのける。ジョンハクは内心、不愉快極まりないが、ここで臍を曲げて帰るわけにはゆかない。
 目的を遂げるまでは帰れない。自分が来たくもないここに来たのは、息子のためなのだから。
 ジョンハクは、そこはかとなき笑いを浮かべたまま王妃を真っすぐに見た。
「今日は折り入って中殿さまにお願いがありまして」
 王妃がのけぞらんばかりに愕いた。いささか大袈裟すぎる反応だ。
「なに? 私に頼みとな。それはますますもって珍しい」
 ジョンハクは背中を嫌な汗がつたうのを自覚した。三月半ばで暑くもないはずなのに、よほど緊張しているのだろう。
 ジョンハクは頷いた。
「実は愚息のことなのです」
 王妃が眼をまたたかせた。これは本当に意外な話であったらしい。
「なに、チュソンのことなのか」
「さようです」
 王妃が意味ありげな笑いを浮かべる。
「どうやら今日は珍しい続きと見える。チュソンなれば私が介入するまでもなく、万事上手くやっているであろうに」
 ジョンハクは小さく首を降った。
「とんでもありません。出仕したとはいえ、まだ若く未熟ゆえ、日々、気が抜けないようです」
 王妃は平坦な口調で続けた。
「とはいえ、表のことならば私にはあまりそなたの役に立てそうもないぞ。チュソンが女の子で、後宮にでも入れるというのならまた話は別だが」
 ジョンハクは如才なく言った。
「後宮といえば、世子嬪さまがご懐妊の由、真におめでとうございます」
 世子益善大君(イクソンテーグン)は十五歳だ。世子嬪も同年である。溺愛している世子の名を出したのは、もちろんジョンハクなりの思惑だ。
 案の定、王妃の装った顔はたちまちにして笑み崩れた。紛れもない母の顔だ。
「ああ、これで私も漸く肩の荷が下りた」
 十一歳で当代国王に入内した姉ではあるが、けしてここまで順調だったわけではない。
 王妃には四人の御子がいる。世子益善大君は末っ子で、上に三人の王女が生まれていた。十九年前、王妃は第四子を懐妊した。既にその時、三人の王女がいた王妃は三十六歳。当時としては超高齢出産だ。
 国王には数人の側室がいたが、その時点で生まれていたのはすべて王女ばかりだった。皆が嫡出の王子生誕に望みを賭けていた。
 やがて月満ちて出産、年齢のせいもあるのか、今までの三度の安産が嘘のように難産となった。三日に渡る陣痛に耐え漸く出産したものの、生まれた子は既に死んでいた。
 ちなみに、ジョンハク自身の一人息子チュソンも同年の生まれである。
 赤児は世子になれるべき男児であり、国王初め廷臣たちは悲嘆に暮れた。王妃の年齢から考えても、嫡出の王子は最早望めぬと皆が諦めたのだ。
 ところが、である。その三年後、奇跡が起こった。王妃が再び懐妊したのだ。国王は歓び、王妃の出産を何としてでも無事に終えるように医官たちに厳命を下した。順調な妊娠経過を辿り産み月を迎えた。この度は逆子と事前に分かっていたため、前回より更に難産になるのではと医官たちは憂い顔だった。が、予想外に赤児はすんなりと生まれ、元気の良い産声を上げた。
 それが世子益善大君だ。四十歳での妊娠出産は極めて珍しく、王子生誕の日、朝鮮全土で民たちが歓びの提灯行列をしたという。
 その世子は十二歳で妃を迎え、この度、世子嬪の懐妊が判明した。まだ生まれるのが男か女かは判らないが、王室繁栄は臣下としても朝鮮の民としても嬉しいことだ。
 王妃にしてみても、第一王子を失っているからには、第二王子の健やかな成長、更には早くもその王子に跡継ぎができたという知らせには感慨深いものがあるはずだ。
「これで世子嬪の生む御子が男であれば、言うことはないのだが」
 王妃は呟き、ジョンハクを見た。
「今日、そなたが参ったのはチュソンのことだと申したな」
 やはり、王妃が可愛がる益善大君の話を持ち出したのは正解だったようである。王妃の眼に閃いていた先刻までの油断ならぬ光は消えていた。
 ジョンハクは深く頷いた。
「実は倅に想いを寄せる娘がいるようなのです」
 王妃が予期せぬことを聞いたかのように瞠目した。
「ホウ」
 ややあって、眼許を和ませる。
「神童と呼ばれた天才とはいえども、人の子だ。チュソンは幾つになったか?」
「十八になります」
 すかさず応えたジョンハクに、王妃は幾度も頷いた。
「十八であれば、想う女の一人や二人いて当然ではないか」
 ジョンハクは言葉を選びながら、話を続けた。
「中殿さまのおっしゃる通りです。我らも最初は愕きましたが、倅の歳を考えればむしろ遅いくらいではないかと」
「さもありなん。なるほど、そなたの腹が読めた」
 王妃は面白げに言い、また抜け目ない様子でジョンハクを見た。
「私に縁結びをしろと申すのだな」