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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 不思議だ、白藤が好きだと語ったのはジアンなのに、チュソンが並んで歩いているのは央明翁主であった。恋い焦がれた女性が一度に二人も夢に現れたようで、それはそれで悪くはなかった。
 チュソンは眠りながら、涙を流していた。幸せな夢のはずなのに、何故、自分が涙するのか、チュソン自身にも判らなかった。

   恋という病

 チュソンが夢で想い人と束の間の逢瀬を交わしていた頃、ナ・ジョンハクは宮殿内にいた。彼が目指すのは、中宮殿である。
 ジョンハクは屋敷を出る間際に見た倅の顔を思い出していた。何と憔悴した様子であったことか。生き生きと理知の光に満ちていた双眸は光を失い、表情もどこか虚ろだ。
 このままでは、息子はむざと寿命を縮めてしまうかもしれない。ジョンハクは危機感を強めていた。
ー央明翁主さまを妻に欲しいのです。
 息子が爆弾発言をしたのは、十日余り前だ。寄りにも寄って、当代国王の娘を見初めたのだと言い切った。
 妻のヨンオクはこの婚姻には猛反対している。むろんジョンハク自身も賛成にはおよそ遠い気持ちだ。だが、息子はどうやら本気で王女に入れあげているようだ。
 最近の息子は吏曹で粗相をしでかすことはなくなったらしいが、その代わり、半ば廃人のような体だ。先ほど訊ねたときには食事も取っていると応えたけれど、あのやつれようでは、満足に食べてはおるまい。
 このまま手をこまねいていては、自分たちは大切な息子を失うだろう。ジョンハクにとって、一人息子のチュソンは掌中の玉であった。娘ではなく息子だから、あからさまに愛情を示すことはないが、あの子が跡取りたる男児で本当に良かったのだ。
 ヨンオクはチュソンを生んだときに難産すぎて、二度と子どもは望めない。妊娠はできるが、次に出産すれば生命の保証はないと医者に言われていた。
 事実上、自分たちは二度と子が持てなくなった。だから、たった一人授かった子が男児で幸いだった。また、科挙に最年少で首席合格するほどの天才が男児であったのも良かった。女児であれば、それほどの才覚を持っていても、みすみす宝の持ち腐れだ。むしろ、嫁ぐ邪魔にはなりこそすれ、女性として幸せにはなれなかっただろう。
 妻に望む女は愚かでは困るが、あまりに才走っても困る。妻が自分より利口であることを歓ぶ男はおるまい。
 ヨンオクはヨンオクで、一人息子のチュソンをあからさまに溺愛している。チュソンが慕う女性がいると打ち明けたあの夜も、過剰なほど反応していた。
 妻のあの激高ぶりを見て、これはチュソンが正真正銘の嫁取りをすれば先が思いやられるとジョンハクは暗澹とした気持ちになったものだ。息子可愛さに嫁いびりをする姑の話は枚挙に暇が無い。
 よもや、我が家でも嫁いびりが起こるとは、ジョンハクは想像さえしたことがなかった。
 できる限り、今はそのようなことにならないのを願うしかない。
 それはさておき、チュソンを今の状態で捨て置くことはできない。王女を嫁に迎えるのは、確かに栄誉ではある。しかし、格上の家から嫁を取るのは、気詰まりなことこの上ないのも確かだ。
 子どもだと思っていた息子も気がつけばはや十八、自分が十七歳でヨンオクと結婚したのを思えば、遅すぎるくらいだ。科挙に合格し、吏曹正郎として任官も果たした。加えて、名門羅氏という箔があれば、息子の出世は約束されたようなものだ。 
 だが、王女が降嫁すれば、息子の将来は閉ざされる。名ばかりの名誉職を与えられ、一生、政治に拘わることなく過ごさねばならない。あれほどの才覚と能力を持つ息子なのに、あまりに勿体なく口惜しい。
 それでも、彼は息子の出世と生命を引き替えにする気はなかった。両天秤にかければ、どちらに傾くかは明らかだ。
 ここは無念ではあれども、息子の健康と生命を優先し、親の方が譲ろうと腹を決めた。もちろん、妻に話せば半狂乱になって止めるのは判り切っている。だから、ヨンオクには事が成就するまで話すつもりはなかった。
 中宮殿の壮麗な建物が見えてくると、ジョンハクは更に気を引き締めた。彼にとって、王妃は姉に当たる。ただし、父親は同じで、母は違う異母姉だ。
 ジョンハクは物心ついた時分から、この異母姉が苦手だった。十人を超える兄弟姉妹の中、王妃は一番上であり、ジョンハクは末子だから、歳は十三の開きがある。王妃が入内したのはジョンハクが生まれる前だから、共に過ごした時間というものはない。
 たまに王妃が里帰りしたり、ジョンハク自身が父に連れられて参内し訪ねた時、王妃の美しい面にはいかにも優しげな微笑が浮かんでいる。
 しかし、微笑みが見かけだけのものであるのを何より彼は知っていた。王妃が冷淡なのは、腹違いであるというだけが理由ではなかった。父ー領議政の最初の奥方は、上流両班の息女である。羅氏に引けを取らぬ名家の出なのだ。
 不幸にも最初の夫人は三十歳という若さで亡くなった。王妃が入内して家を出て、わずか二年後のことだ。夫人が体調を崩して寝込んだのは亡くなる一年ほど前だが、既にその時、後妻となったジョンハクの母は妊娠していた。
 つまり、父は妻が病に倒れた頃、母と関係を持っていたのだ。二人が知り合ったのは本当に偶然であったという。下町の露店で美しい絹の刺繍靴を見ていた母を父が見初めたのだ。
 相手が下女ならともかく、母は曲がりなりにも両班の娘であった。もちろん、羅氏にははるかに及ばない中流ではあったが。父は既婚者でありながら、まだ十七歳だった母を誘惑し、身籠もらせた。
 父は奥方が寝付いているのを良いことに、しばしば屋敷を抜け出し、母と逢瀬を重ねていた。やがて母は懐妊、お腹がかなり目立つようになった頃、奥方はついに亡くなった。
 父は身重の母を捨て置けず、前妻の喪も明けない前から母を継室に迎え入れた。ジョンハクが生まれたのは父と母が婚儀を挙げて三ヶ月後だった。
 他人には早産であると苦しい言い訳をしたものの、ひと月程度ならともかく、数ヶ月もごまかしきれるはずがない。世間では
ー前(さき)の奥方さまがまだ病で苦しんでおられる時、羅氏の旦那さまは若い娘と楽しんでいたのだ。
 と、相当悪く言われたらしい。けれども、その噂はすべて事実であった。
 ジョンハクが生まれた背景には、このような経緯があった。
 もし立場が変わっていたとしたらー。多分、ジョンハクだとて相手の女を恨んだだろう。糟糠の妻が病で苦しんでいる最中、若い女に目移りし、あまつさえ妊娠させた。ジョンハクが王妃だったとしても、父を許せないと思ったに相違ない。
 悪いのは父であり、王妃にも亡くなった前夫人にも罪はない。また、父が既婚者と知りつつ、関係を持ち続けた母の貞操観念も残念ながら疑わしいものだ。
 王妃が自分に向ける侮蔑の視線の中には、身持ちの悪い母を持つ息子という意味合いもあるはずだ。その母も数年前には亡くなった。
 領議政である父は今、七十五歳だ。ここ最近は新しい側妾を迎えたという話は流石に聞かないが、母が亡くなるくらいまでは艶めいた話には事欠かなかった。