小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

INDEX|13ページ/41ページ|

次のページ前のページ
 

 チョンドクは頷き、軽く一礼し、夫婦は寄り添い合うようにまた歩き去った。チョンドクの妻は赤児を宝物のように大切そうに抱いていた。
 良い光景だと素直に思う。チョンドクはチュソンの乳兄弟だ。子ども時分は二人でーというより専ら、屋敷を抜けだそうとそそのかしたのはチュソンだがーよく、学問の師匠が来る日に限って、室を逃れて出て下町を闊歩した。
 チョンドクの母、チュソンの乳母を務めたヨニは今も女中頭として羅家ではなくてはならない存在である。執事を務めた父親の方は数年前、病を得て亡くなった。今は別の年かさの使用人が執事を務めているが、二、三年内にはチョンドクが父の跡を継いで執事になることは決まっている。
 チョンドクはチュソンが王宮に出仕する際は、供回りとして付き従い、屋敷では彼の身の回りの世話や雑用をこなしているのは昔と変わらない。その他は下男としての仕事をし、所帯を持った今は住み慣れた羅家の屋敷内にある小屋から出て、一家を構えた。去年には初子にも恵まれ、同じく羅家の女中である妻と共に子を連れて通いで奉公している。
 そういえば、ジアンと初めて下町で出逢ったのも、チョンドクと屋敷を抜け出した最中だった。あの日がもう随分と昔のように思える。
 幾ら探しても見つからないジアンと再会する夢は、とうに諦めた。そしてやっと出逢えたと思えた次の恋の相手は、あろうことか国王の娘、王女であった。
 どうも自分は実りそうにもない恋に落ちる宿命らしい。王女を望むなど、母が言うように分不相応なのかと気弱になることもある。でも、チュソンは思うのだ。
 人が人を恋することに、貴賤はない、と。生まれが人の価値を決めると考えているのは、両班特有の奢った思想にすぎない。人は生まれや身分を選べないのに、どうして、王族や両班だけに人としての価値があるといえるのか。
 それは、単に生まれが良いというだけの話で、当人の付加価値になりはしても、その人そのものを判断する材料にはならない。人としての価値は、例えば、その人がどのような生き方をしてきたか、何を重んじているか。そういった内面で決まるものだ。
 チョンドクは恋愛結婚だ。ある年、新しく入った若い女中が彼の妻になった女だった。いわば職場恋愛である。上級使用人とはいえ、使用人のチョンドクと女中の結婚は、母に言わせれば分相応なのだろう。
 だが、チュソンは、あの二人が分相応な結婚をしたから、幸せなのだとは思わなかった。恋愛ではなく、主人の言いつけで下男と女中が婚姻するのは珍しくはない。その中で、すべての結婚が上手くゆくとは限らない。時には途中で離縁する夫婦もないわけではなかった。
 チョンドクが幸せになれたのは、互いに求め合う生涯の想い人と結ばれ得たからだ。そこには身分だとか分相応だとかは関係ないだろう。
 チュソンは央明翁主との結婚を諦めるつもりはなかった。両親にも告げたように、王女に思いの丈を伝え拒絶されたら、そのときは男らしく諦めようと決めている。
 さりとて、両親はチュソンの希望を全面的に否定している。現状、チュソンがあの気高くも優しげな王女を手に入れる可能性は限りなく低い。
 彼は腹の底から重い息を吐き出した。溜息を幾度ついたとしても、心は軽くなるどころか、溜息の数だけ憂鬱も増しそうだ。一体、何をどうすれば、王女を妻にできるのか。まさか国王に娘さんを妻に下さいと直訴するわけにもゆかない。
 これがたとえ深窓の令嬢といえども、両班家の息女であれば直接訪ねていって求婚するということもできる。けれど、相手は宮殿に棲まう王女だ。チュソンがおいそれと近づけない雲の上の方である。
 チュソンが幾ら宮仕えしているとはいえ、王の女や未婚の王族女性が暮らす後宮と官吏たちが日々仕事をする役所は厳然と区別されている。確かにその意味では、王女はチュソンのような駆け出しの官吏には手の届かない遠いひとであるのかもしれなかった。
 チュソンはまた溜息をつき、緩慢な足取りで歩き始めた。ふと背後を振り返っても、既に廻り角を曲がったものか、チョンドク夫婦の姿は見えなくなっていた。
 道から屋敷の門へと続く階段を昇っていると、父が姿を見せた。チュソンは丁重に頭を下げた。
「ただ今、戻りました。父上はこれから、お出かけですか?」
 ジョンハクは頷き、息子を探るような眼で見つめた。父の気遣わしげな視線を避けるようにあらぬ方を見つめ、チュソンは空元気を装った。
「大丈夫ですよ。今日も滞りなく仕事はこなしましたから、令監さまにも叱られることはありませんでした」
 しかし、父はまったく別のことを口にした。
「チュソン、少し痩せたか?」
 チュソンは笑って首を振る。
「いえ、特に自覚はありませんが」
 父は続け様に問う。
「食事は三度きちんと取っているのであろうな」
 あたかも幼児に対するような過保護さだが、これも父が我が身を思うゆえの心配だと判っている。
「はい、きちんと頂いております」
「であれば良いが」
 頷きはしても、チュソンの言葉をあまり信じてはいないようだ。
「それでは、出掛けてくる」
「行ってらっしゃいませ」
 チュソンはまた父に頭を下げた。階段を降りた先では、下僕が馬の手綱を引いて待っている。父は下僕から手綱を受け取ると、ひらりと馬に跨がり、掛け声と共に鐙を蹴った。父の乗った鹿毛は瞬時に見えなくなった。
 チュソンは、ゆっくりと階段を上る。父に話したのは大嘘だ。このところ、ろくに食事も取っていないし、夜は夜で十分に眠れていない。原因は、あの麗しの王女のせいである。
 夜、布団に入っても天井に王女の笑顔が映るくらいだから、これはもう重傷だ。世の人は、このような状態を?恋煩い?と呼ぶらしい。
 この頃、若さまがあまり食事を召し上がらないと聞きつけ、母は心配して松の実粥を手ずから作って運んでくれるも、やはり喉を通らない。粥を食べようとすれば、粥にも王女の顔が浮かぶとは、我ながらこれはもう女に惚(ほう)けているとしか言いようがないではないか。
 どうやら、母はまだ息子の食欲不振について父には報告していないようだ。
 どうすれば王女に想いを伝えられるか、思案を巡らせても名案は浮かばない。面妖なことだ。科挙に備えての勉学の中には、恋の成就のためのすべは何一つ書かれていなかった。当たり前といえば当たり前だけれど、手がかりになりそうなことすら見当たらない。
 漸く思い浮かんだのは恋文を書くくらいのものだが、それとて、どうやって王女に届ければ良いのか判らない。金を使って女官か内官に託して渡して貰うという手段がないわけではない。恋文を渡したは良いが、もし返事がなかったらおしまいだ。
 ーなどと、あれこれと考え過ぎてしまい、余計に何もできなくなってしまう。チュソンは打ちひしがれ、自室に戻った。本を開く気力もなく、ゴロンと横になっている中に睡眠不足が祟ってか、いつしか浅い微睡みに落ちていた。
 短い夢の中で、彼は想い人と並んで歩いていた。どこなのか判らないが、白藤が咲き匂う藤棚の下を二人で談笑しながら歩いている。