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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「チュソン、我が息子ながら、そなたは私の自慢だ。私は必死に勉学に励み、それでも科挙に合格したのは三十を目前にして何度目かにやっとの有様だった。父上のつてで早くから任官はしたものの、父親の引きで仕官したと随分と陰口を叩かれたものだ。それを言えば、本家を継ぐ兄上や他の兄たちも同じで、まともに試験を受けて任官できたのは、大叔父上くらいのものだからな」
 大叔父というのは、祖父の叔父に当たる。高齢ゆえ隠居してはいるものの、若い頃は英才の呼び声が高く、科挙は初挑戦にして第二位で合格したという伝説の秀才だ。
 ジョンハクは少し誇らしげに言った。
「その大叔父上ですら、初戦で合格したのは二十歳で、しかも二等だった。そなたは十七でいきなり首席合格した。私だけではなく、羅氏一門の誉れなのだ」
 チュソンは叫ぶように言った。
「私にとっては、首席合格がさほど重要な意味を持つとは思えません」
「何を申すのだ。いかほどの者が首席を取ろうと時間と金を費やして勉強していると思っている! それでも、まともに試験を受けて合格すらできない人間もいるのだぞ」
 父の言葉は道理ではあった。中には白髪頭になるまで受験しても、ついに合格できない気の毒な人もいるのが現実だ。
 チュソンはうつむき、また顔を上げた。
「私の言葉が過ぎましたら、お許し下さい。さりとて、人の幸せとは何でしょう? 父上は母上と出会われて幸せでしたか?」
 ジョンハクにとって予期せぬ科白だったのは明らかだ。チュソンは続ける。
「お二人が政略結婚だとは存じております。それでも、私の眼に映る父上と母上はとても幸せそうだ。父上、私もお二人のように幸せになりたいのです。仮に翁主さまが私などに嫁ぎたくもないと仰せであれば、私は潔く身を引きます。ですが、それまでは諦めたくありません」
 母が唇を震わせた。
「諦めなさい、チュソン。王女さまを我が家に頂くなんて、大それたことを考えないで。分相応という言葉があることを知りなさい。羅氏とはいえども、私たちは末端に連なる分家筋でしかないのよ。本家ならともかく、国王さまの姫君は高嶺の花だわ」
 チュソンは今度は母に向かい、きっぱりと告げた。
「私は諦めません。父上にも申し上げた通り、翁主さまが私の顔を見るのも嫌だとおっしゃらない限りは諦めません」
 母が飛ぶようにしてチュソンの側に来た。父が止めるまでもなく、母の手がチュソンの頬に飛んだ。
「馬鹿」
 チュソンは頬を押さえ、茫然と母を見た。
悪戯が過ぎて鞭で脚を打たれても、頬を直接はたかれたのは生まれて初めての経験だ。馬鹿呼ばわりされたのも初めてだ。
「母は先刻、言いましたね。分相応という言葉を知りなさいと。その意味が判りますか、チュソン」
 チュソンはゆるゆると顔を上げた。母の棗型の瞳が燃えるように輝いている。
「人には天から与えられた分というものがある。それを忘れ、身の程知らずの高望みをすれば、必ず天罰を蒙ります。あなたが望んでいる王女さまの降嫁は、まさに分不相応なのですよ」
 チュソンは昂然と言った。
「私はそうは思いません。人が人を恋い慕うのに、分相応も不相応もない。大切なのは気持ちです。情がなければ、確かに分不相応かもしれませんが、もし、王女さまも私で良いと言って下さるなら、不相応な縁ではないはずではありませんか、母上」
「まだ判らないの、この愚か者ッ」
 ヨンオクがまたも手を振り上げようとするのに、父が鋭い声で制止した。
「ヨンオク、止めなさい」
 父は母に甘い。こんな風に声を荒げたのは初めてだ。母は戸惑ったように父を見つめ、それから両手で顔を覆いワッと泣き出した。
 母を見つめる父の顔には困惑がありありと浮かんでいた。
「今日のところはもう良い。そなたの気持ちは判った。だが、色恋沙汰と仕事はまったく別ものだ。王女さまの話はまた別として、吏曹での勤務には支障が出ないようにしなさい」
 父に言われ、チュソンは立ち上がった。父に一礼し、母にも挨拶しようとしたところ、母はまだ泣いていた。
 静かに扉を開け、回廊に出る。
「王女さまを嫁に迎えるなど、冗談ではありません。大監はチュソンの望みを叶えてやるつもりですの?」
 母の涙混じりの声が扉を通して聞こえてくる。ややあって、父の苦しげな声が聞こえた。
「恋愛経験のない者ほど、一度思い込んだら梃子でも動かぬ。あれほどに思い詰めたチュソンを見るのは初めてだが」
「では、大監(テーガン)は国王殿下に降嫁を願い出るおつもりなのですか!」
「ー」
 父は黙り込んで、何も言おうとしない。
 母が泣きながら訴える。
「央明翁主さまなどという方が王室にいらっしゃることも、私は今まで知りませんでした。息子の眼を引いたほどです、美しい方なのでしょうけれど、私は王女さまが恨めしいですわ。何故、後宮の奥深くにお住まいの姫君とチュソンが出会ってしまったのでしょう。チュソンの眼に入る場所にいなければ良かったのに」
 父のたしなめる声が続いた。
「何を言うのだ。翁主さまご自身に罪はない。人の縁とはそのようなものだ。意図して避けることはできぬ。チュソンと王女さまが出逢ったのも縁だとしか言いようがない」
 立ち聞きは人として褒められたことではない。父母の会話はまだ続いているようであったが、チュソンは足音を立てないように自室へと戻った。
 
 父の訓戒を受けて以来、チュソンも勤務中は気を引き締めるようになった。そのお陰で、仕事上のミスもなくなり、表面上はすべてが順調に流れていっているように見えた。
 三月半ばのある日、チュソンは勤務を終え、いつものように徒歩(かち)で屋敷まで戻った。高官クラスになると、偉そうに輿にふんぞり返って出仕する御仁もいるが、チュソンはあまり好みではない。ましてや、彼はまだ任官したばかりの新米だ。
 屋敷の前は、人気の無い道が続いている。官服のチュソンが屋敷に向かって歩いていると、小道を若い夫婦が対抗方面から歩いてくるのが見えた。
 チュソンの頬が思わず緩む。
「チョンドク」
「若さま」
 チョンドクも嬉しげに顔をほころばせていた。チョンドクに寄り添うように立つ若い女もチュソンに丁重に頭を下げた。この若い女はチョンドクが二年前に娶った妻である。チョンドクは八年前、チュソンが父の任地に下向するのに従った。もちろん、乳母のヨニも一緒だった。八年の間には、チョンドクにも様々なことがあった。都を離れた彼(か)の地でナ家の執事を長年務めたチョンドクの父親は亡くなり、また、彼自身は現地で雇った雇った若い女中と所帯を持った。
 チョンドクの妻は、腕に丸々と肥えた赤児を抱いていた。
「今日は早いな。もう帰りか?」
 チュソンが気軽に声をかけると、チョンドクが少し顔を曇らせた。
「赤ン坊の具合が良くないんで、連れて帰って医者に診せようと思ってるんです」
「それはいけない」
 チュソンは近寄り、女房の腕の中の赤児を見た。生後八ヶ月くらいの赤児は男の子だ。チョンドクによく似た利かん気な顔をしている。ふっくらとした頬が紅いのは、風邪で熱があるせいかもしれない。
「春先は気候が変わりやすいからな。よく気をつけてやると良い」