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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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「とにかく話だけは聞こう。考えてみれば、そなたも十八だ。恋愛話の一つ二つあっても不思議ではないーというより、むしろ無い方がおかしかった。今まで科挙受験ばかりで他のことにまで思慮が及ばなかった私たちにも落ち度はある。それで、その女人というのは、どこの家門の娘なのだ?」
 チュソンは口ごもった。
「それは」
 ジョンハクの声が幾分やわらかくなった。
「この際だ。胸にある想いはすべて吐き出してしまった方が楽になれる。そなたももう任官したからには一人前だ。妻を持ったとしても、その歳ではむしろ当たり前だと言われるだろう。もし橋渡しができるようなら、その娘の親御さんに私から話をしてみても良い」
 寛大な父の申し出にも、チュソンはなかなか真実を話せなかった。
 父が訝しげにチュソンを見て眉を寄せた。
「どうした? チュソン。不安がることはない。誰しも、そのような体験はするものだ。自分で言うのも何だが、我が羅氏は縁組みの相手としてそれほど役不足ではあるまい。私がその息女の父御に上手く話をつけてやろう」
 それでもなお、倅は頑なに口を噤んで話そうとしない。ジョンハクの顔がやや厳しくなった。
「それとも、その女人は親にも話せないような身の上なのか?」
 母の金切り声が響いた。
「もしや既婚婦人なのではないでしょうね」
 父は額に手を当て、大仰な吐息をついた。
「夫人、どこをどうやったら、そんな奇想天外な発想ができるんだ? 近頃、都に小説なるものが流行っているそうだが、そなたも小説の読み過ぎではないのか」
 誰が書いたかは知らねど、恋愛小説が当世、都で大流行中だ。話の大筋は大体決まっており、政敵関係で対立している両班家の御曹司と姫君が熱烈恋愛の末、駆け落ちするか、もしくは両班家の年老いた当主に嫁いだ若い後妻が見映えの良い下僕の若者と相愛になり、果ては心中するという悲恋物語が多い。
 作者は不明で、一説には無官の両班が暇つぶしと小遣い稼ぎに書いているといわれている。両班家の奥方、令嬢はおろか、この頃ではそのようないかがわしいものを読んでと妻子をたしなめるべき当主ですら、妻や子に隠れてひそかに読み耽っているという話だ。
 売り本はむろん貸本でもなかなか手に入らないとされ、中には物語を書き写したものをまた高値で売り飛ばす不心得な輩もいるとかいないとか。
 ヨンオクは良人にからかい気味に言われ、少女のように頬を染める。この場合は、チュソンが溜息をつきたい気分だ。両親は恋愛結婚ではないけれど、今でも仲が良い。十八にもなる息子の前で、新婚夫婦のようにいちゃついた挙げ句、母は無垢な新妻よろしく頬を染めている。
 両親の仲が良いのは悦ばしいことだが、良い年をした息子としては複雑な心境である。
 チュソンが呆れ顔で見ているのに気づいたのか、父が気まずげにまたわざとらしい咳払いをした。
「とにかく、だ。ヨンオクの言うように、忘れ得ぬ女人というのが人妻ではないのだろう?」
 念押しされ、チュソンは深く頷いた。
ーまったく、母上ときたら、何を言い出すやら。
 四十近くなっても、母の思考は嫁入り前もしくは当時と変わらないのだろうか。
「むろんです」
 父は安堵したように頷き、?ほらご覧?と言いたげに母を見た。
「回り道をしたが、そろそろ本題に戻そう。チュソン、悪いようにはせぬゆえ、想い人の名を言いなさい」
 チュソンは居住まいを正し、父を見つめた。
「央明翁主さま(オンジュマーマ)です」
 一瞬、間の抜けた空白がひろがった。父も母も言葉と現実が俄には結びつかないといった表情だ。
 チュソンは焦れったい想いで再度言った。
「央明翁主さまを妻に欲しいのです」
 やっと思考が現実に追いついたのか、父の顔がまたも強ばった。
「馬鹿を申すな」
 表情は声以上に厳しい。ジョンハクは唇を引き結び、自らを落ち着かせるように息を吸い込んだ。
「そもそも、そなたは央明翁主さまを存じ上げないはずだ。なのに、何故、翁主さまを忘れられないなどと言うのだ」
 チュソンは決然とした面持ちで言った。
「幾ら世間知らずの私でも、見たこともない方を恋い慕ったりはしません。私は央明翁主さまを知っています。十日前、中殿さま(チユンジヨンマーマ)にご挨拶に伺う際、後宮の庭で投壺をなさっていた翁主さまを見ました」
「ー」
 またもジョンハクは絶句した。
「あの日、そなたは翁主さまを垣間見たというのか」
 チュソンは黙って頷いた。
 ジョンハクは漸く体勢を立て直したようである。
「この縁が叶うはずがないのは、そなたもよくよく理解できるはずだ」
 噛んで含めるような言い方は、三歳の子どもに対するものだ。チュソンの中で俄然、反抗心が頭をもたげた。
「何故ですか! 父上ご自身が先ほど仰せになったのではありませんか。我が羅氏は嫁ぎ先として役不足ではあるまいと」
 ジョンハクが気まずげに押し黙った。
 そのときだった。良人を援護するように母が叫んだ。
「それで、あなたの将来は? チュソンの将来はどうなるというの?」
 ジョンハクは何かに耐えるような顔で息子を見ていた。やがて、溜息と共に言った。
「母の言う通りだ。チュソン、そなたは王女を妻に頂くというのがどのような意味を持つか判っているのか? その上で、央明翁主さまを頂きたいと申しているのであろうな」
 チュソンは固唾を呑み、父を見つめた。傍らの母はいつになく血の気がない蒼白い顔をしている。
 自分の突飛な宣言がこれほどまでに母を追い込んでいると思えば、心は痛んだ。けれど。
 ここまで口に出したからには、チュソンも後に引くつもりはない。恋愛結婚ではなくとも、やはり当の王女の意思確認は必須ではある。しかし、父の言う通り、羅氏が降嫁先と言われ、敢えて国王が反対するとは思えない。
 こんな言い方はしたくないが、正室腹でもない王女の嫁ぎ先としてはむしろ歓迎したい縁談だろう。当の王女が羅氏には嫁ぎたくないと言わない限り、チュソンはもう諦めるつもりはないのだ。一度口にしたからには、最後まで想いを貫く覚悟だった。
 また歴代の王女たちの降嫁先を見た時、科挙の首席合格者に白羽の矢が立った先例は幾度もある。やはり王も人の親だから、見込みのある若者に娘を嫁がせたいという親心だろうか。
 チュソンが首席合格者だという事実は彼を助けることになりはすれ、邪魔にはならない。
 父が言おうとしていることは、チュソンにもおおよそは予測できた。案の定、ジョンハクは重々しい声で言った。
「附馬となれば生涯、政治の表舞台には立てぬ。そなたの才能をあたら埋もれさせるのか」
 チュソンは唇に軽く歯を立てた。やはり、父はこのことを言おうとしていたのだ。恐らく母の胸中も同じに違いなかった。
 国王の娘婿となった者は附馬と呼ばれ、生涯官職にはつけない。いや、官職は与えられはするが、所詮は飾りだけの名誉職、意味の無い代物だ。王の血を引く娘を妻に持った男は、死ぬまで王室で飼い殺しになる。それは無用の王位継承争いを避けるためだ。
 王の娘の良人が政権を握り、万が一、自らが王座に座ろうなどと邪な考えを持たないために、附馬は政治とは関われない。
 ジョンハクは溜息交じりに言った。