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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 パク・ジアンは幾ら探しても見つからない。そろそろ自分も新しい恋を探すべきで、いつまでも恋とも言えない昔の淡い感情に振り回されているべきではないのかもしれない。
 いや、パク・ジアンへの想いは幼いなりに真摯で深いものだった。しかし、都中を探し回っても、彼女は見つからない。チュソンはジアンへの気持ちが幼さゆえの一過性のものだと自分に言い聞かせ、諦めようとしたのだ。
 チュソンはその日、初恋の少女と決別した。けれどー。新たな恋の始まりはまた、新しい苦しみの始まりでもあった。
 その日を境に、チュソンの頭から央明翁主の涼しげな笑顔が離れなくなった。優しい眼で妹を見ていた姉姫。きっと顔だけでなく心も美しいひとなのだろう。
 何とかして翁主にもう一度、逢えないものか。想いは募り、雪のように降り積もった感情はチュソンを絡め取る。チュソンは連日、仕事で些細なミスを繰り返した。
 父に呼び出されたのは、初出仕から十日を経た夜だ。その日もチュソンは吏曹参判から、こっぴどく叱責を受けたばかりだった。
 本来なら承政院に回すはずの重要書類を間違って義禁府に回してしまったのだ。承政院は、王命の伝達と臣下の上奏の報告を王に行う官庁である。
 本来なら起こるはずもない初歩的なミスに、吏曹の次官は激怒した。
ー一体、何を考えて仕事をしているのだ! 科挙で首席合格したと聞いているが、真なのか? 何故、こうも物憶えが悪い! 領相大監や兵判大監の手前、これでも我慢していたんだぞ。だが、今日という今日は我慢の限界だ。ここは、お坊ちゃんがお遊びにくる場所ではない。皆が真剣に仕事をしている役所なのだ。真面目に仕事をする気が無いなら、とっとと屋敷にすっこんでろ!
 返すべき言葉もなかった。チュソンはひたすら頭を垂れ、吏曹参判の怒りが静まるのを待たねばならなかった。
 大失態を犯した自覚はあるだけに、チュソンは何用で呼ばれたのかはよく理解していた。
「父上(アボニム)、チュソンです」
 父の書斎の外から扉越しに声をかけると、ほどなく父のいらえがあった。
「入りなさい」
 チュソンは静かに両開きの扉を開け、室に入った。父は屏風を背景に紫の座椅子(ポリヨ)に座っている。文机の前には漢字の並んだ書物が一冊、書見をしていたようだ。
 チュソンは文机を間に、父と向き合った。寛いだ様子ではなく、きちんと膝を揃えて座る。屏風には池で泳ぐ二匹の鯉が墨絵で描かれている。彼は所在なく視線で二匹の鯉を追っていた。
 しばらく父はチュソンがそこにいるのを忘れたように、無言でページをめくっていた。随分と時間が経過したように思えたけれど、実際にはたいした刻ではなかったはずだ。
 父は手を止め、おもむろに顔を上げ、チュソンを見つめた。
「今宵、私がそなたをここに呼んだ理由は判っているな?」
 チュソンは頷き、素直に頭を下げた。
「至らぬ私のせいで、父上にまでご心配とご迷惑をおかけします」
 ジョンハクは溜息をつき、息子を見た。
「子の過ちの責めを負うのは親の務めだと理解はしている。さりながら、私はどうにも信じられんのだ。今日、吏曹参判から私もそなたの仕事ぶりを事細かに報告を受けたばかりだが、そなたが三歳の童でもせぬようなミスを繰り返すというのが、どうにも信じられぬ」
 一人息子を誇りに思っている父としては、もっともな話かもしれない。チュソンはうつむき、弁解の言葉も出てこなかった。
「申し開きもできません。令監さま(ヨンガンナーリ)の仰せはすべて事実ですゆえ」
 ジョンハクが今度ついた溜息は、先刻より更に深かった。つくづく自分は親不孝者だとチュソンは我ながら顔が上げられない。
 その時、静かに扉が開き、母が入ってきた。
 まずい、と、チュソンは母ついで父を恨めしげに見た。父だけなら説教で済むだろうが、母が加わるとなれば、ネチネチと嫌みを言われた挙げ句には最後は泣き出すに決まっている。
 母は今年、三十八歳になった。相変わらずの若さと美貌は色褪せず、四歳違いのはずの父とは十以上も違う夫婦に見える。
 母は小卓を手にしている。優雅な手つきでお茶を淹れ、茶托に乗せた湯飲みを文机に乗せ、チュソンの前にも置いた。
 自分は父の下方に小卓を置いて、その前に座る。チュソンからは斜向かいより少し上手(かみて)だ。
 ジョンハクは湯飲みを手にしたものの口をつけず、チュソンを凝視(みつ)めている。
「何故だ?」
 唐突の問いに、チュソンは息を呑んだ。
 父は再度、ゆっくりと繰り返した。
「有能なそなたが初歩的なミスをするなど、およそ考えられぬ仕儀だ。いずれ相応の理由があると見た。その理由を父に話してはくれないか」
 チュソンは首を振った。
「特に理由はありません。机上の学問と実務は違います。私が考えていた以上に、現実は厳しかったというだけです」
 ジョンハクはなおもチュソンを見つめている。心の奥底まで覗き込まれるような透徹な瞳に、チュソンは無意識に眼を伏せた。
「ー嘘だな。そなたがそこまで心を乱される理由が知りたい。何だ?」
 父がやっと湯飲みを口に当てた。母が淹れた茶を味わうように飲んでいる。
 チュソンは少し躊躇してから言った。
「想いが頭から離れません」
 父の動作がピタリと止んだ。不思議そうな面持ちでこちらを見ている。
「想いとは?」
 ええい、ままよ。チュソンは唇を噛みしめ、ひと息に言った。まるで美しい王女への恋情を吐き出すかのようでもあった。
「さる方の面影です」
 ガッシャーン、派手な音がしじまを破った。父の傍らでひっそりとお茶を飲んでいた母が湯飲みを取り落としたのだ。
 それこそ淑やかな母からは想像できない失態だ。母は自分がやらかした失態も自覚できていないようで、美しい瞳を見開いている。
 どうやら、相当の衝撃を与えてしまったようだ。
 父は流石に母のように愕きを露わにはしなかったけれど、やはり惚(ほう)けたように息子を見ていた。
 ここまで言ったからには、後戻りはできない。チュソンはガバと顔を上げ、真っすぐに父を見上げた。
「恋心が募り、何をしていても、その方の面影が頭から離れません」
「ーっ」
 父は鋭く息を吸い込み、母はふらつきを堪(こら)えるように、小卓に手を置いて身体を支えている。とりあえず、彼は母が失神しなかったことに安心した。
 と、母の甲高い声が割って入った。
「早すぎます。チュソン、そなたはまだ十八なのですよ? しかも科挙に合格して漸く宮仕えを始めたばかり。嫁取りなどできる身ではないでしょう」
 コホンと父が咳払いをし、母をたしなめた。
「夫人(プーイン)、そなたは少し黙っていなさい。確かにチュソンは任官したばかりではあるが、十八といえばもう子どもではない。現に私がそなたを娶ったのは十七のときではないか」
 母が罰の悪そうな表情で言った。
「確かに私たちは若くして婚儀を挙げましたが、うちのチュソンはまだ子どもです。結婚など早すぎます」
 言い募る母にも溜息を洩らし、父はチュソンに向き直った。