裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】
女官は原則、一生奉公だ。王の女とされる女官はすべて国王の所有物であり、他の男と愛を語ってはならないとされている。
とはいえ、現実に国王に見初められる幸運な女官はほんの数人、他の大半は龍顔を見る機会さえなく空しく散ってゆくのだ。恋愛は禁忌とされているからこそ、彼女たちは余計に恋に憧れる。
そんな彼女たちにとっては、チュソンのように見栄え良い若者は格好の標的になる。女官に恋愛は御法度といえども、例外はままあるものだ。上手くやりさえすれば、未来の高官となり得る青年官僚の夫人に収まる道もないわけではない。
彼女たちは一様にチュソンを窺い見ては、ひそひそと何やら囁いている。ところが、当のチュソンは何一つ気づかず、真正面だけを見て歩いており、彼女たちには眼もくれなかった。
もちろん、王妃の棲まいを訪ねるのは初めてである。中宮殿の場所は父から予め聞いていたが、それにしても後宮の何と広いことか。
後宮に美姫千人とは古代中国の表現ではあるものの、一人の男に千人の女とは、チュソンからは考えられない話だ。
当代国王はチュソンの義理の伯父に当たる。国王はなかなかの女好きだというのはよく聞く話であり、正室の伯母の他にも十人を越える側室がいるという。では王が女色にばかり溺れる暗愚な君主なのかといえばそうではない。歴代の王は大半は十指に余る側室を抱えているのが通例だ。
医療技術が未発達であった当時、子どもが生まれても成人まで育つ確率は低かった。国王は血筋を残すのも責務の一つだ。子孫繁栄のため、せっせと子作りに励む場所が後宮なのだとチュソンは理解している。
だが、チュソンは眼の前に黄金を山積みにされてもご免蒙りたい。彼自身の望みは、ただ一人の女と愛を誓い合い、その女だけを見つめて暮らす生涯だ。
そんな時、チュソンの脳裡に浮かぶのは、決まって一人の少女だった。パク・ジアンと名乗った美しい少女。初夏に咲く花のように清楚可憐ながら強い輝きを放つ魅惑的な娘だ。
一体、あの少女は今、どこでどうしているのだろうか。都に戻ってきて一ヶ月、チュソンはずっとジアンについての情報収集を行っていた。だが、あの美しい娘を探す手がかりそのものさえもが依然として見つからない。
実のところ、チュソンは科挙受験のために祖父の屋敷に滞在中も暇なときは都を歩き回り、ジアンを探していた。祖父はそんな孫を見て、
ー試験が間近だというのに、何を考えておるのか知らんが、豪気なことだな。
と、半ば面白がり半ば呆れていた。
科挙を控えた受験生というのは大抵、自室で書物にかじりつくのが相場だからだ。
チュソンは祖父には恬淡と返した。
ーお祖父(じい)さま、お言葉ですが、背後まで水が迫ってきた状況で逃げても意味のないことです。それまでに、防水対策をしておかねば。
祖父の眼が輝いた。
ーなるほど、お前はもう容易万端ということだな?
チュソンは笑った。
ー驕り高ぶるつもりはありませんが、試験準備について、できるだけのことはやりました。今更あがいても仕方ないと考えています。
ー流石に神童と謳われるだけはある。我が孫は頼もしい限りだ。それにしても、惜しまれる。跡取りに決めた次男の息子たちには、ろくな者がおらん。若い女の尻を追いかけ回すことしか頭にない連中ばかりだ。次男の息子どもにそなたの才覚の十分の一でもあればのう。
祖父は本気で残念そうに言った。
チュソンが祖父とのやり取りをぼんやりと思い返していたときだ。ふいに賑やかな歓声に物想いを破られた。
見れば、前方から歓声が聞こえてくるようだ。眼をこらしてみると、大勢の女官や内官が集まっている。彼らが取り囲んでいるのは、立派な身なりをした若い女性二人だ。
一人はピンク色を基調としたチマチョゴリ、もう一人は淡い緑のチマチョゴリに身を包んでいる。どちらもが美しいが、小柄な娘に比べ、長身のほっそりとした娘の美しさは際立っていた。
刹那、チュソンの視線は背の高い娘の方に吸い寄せられた。この距離では顔の細部までは判らないが、綺麗なひとであるのは一目瞭然だ。
後宮であのように豪奢な晴れ着を身につけたうら若い女性といえば、王の側室か娘に限られる。見たところ、二人の娘たちは長い髪を上げず、編んで背中に垂らしている。つまり、彼女たちは王の娘なのだ。
チュソンは立ち止り、なおも動かずに二人をーいや正しくは緑の服の少女を見つめていた。
二人は投壺をしているようだ。ちなみに投壺というのは、余興の遊戯(ゲーム)だ。一定の距離がある場所から前方の壺に矢を投げ入れる遊びである。
「えいっ」
小柄な方が掛け声と共に投げるも、惜しむらくは矢は壺の手前に落ちた。緑の服の娘が細い手で矢を取り、優雅な手つきで投げれば、矢は弧を描いて勢いよく飛び、見事に壺に填まった。
それぞれの王女を応援しているらしく、二手に分かれた女官たちがしきりに手を叩いている。
「あなたには敵わないわ。何度やっても勝てた試しがないもの」
拗ねたように言う妹に、姉王女が優しく身振り手振りを交えて、投げ方を指南している。しまいには姉は妹の背後に佇み手を添えて、実際に教授して見せた。何度か手を添えて投げさせ、最後は妹に一人で投げさせると、今度は矢は壺に命中する。
姉妹の微笑ましい光景に、眺めているチュソンまで心が温かくなった。丁度、集団の端っこで見ていた若い内官が離れ、こちらに向かって歩いてくる。チュソンはさりげなく内官に近づき、すれ違う風を装い呼び止めた。
「申し訳ないが、少し訊ねたい。あの美しい姫君方は、どなたなのですか?」
内官は細い眼を丸くして、怖々と応えた。
「国王殿下(チュサンチョナー)のご息女です」
「ということは、ご姉妹か」
「さようです、右側が聡明(チヨンミヨン)公主さま、左側が央明(アンミヨン)翁主さまです」
二人の王女の立場は明らかな違いがあるようだ。聡明公主というからには王妃の娘であり、央明翁主の方は正室腹ではない。公主の称号は嫡妻から生まれた女の子にのみ許される敬称だ。
チュソンは問うともなしに訊いた。
「央明翁主さまというのは、緑の服を着られた方か?」
「さようです」
内官は頷き、話はそれだけかという顔で見ている。チュソンは礼を言って、内官とは別れた。
いつまでも立ったままで高貴な姫君たちを不躾に眺めているわけにもゆかない。チュソンは中宮殿に向かう脚を早めた。背後でまた愉しげな笑い声が風に乗って聞こえてきた。
伯母との対面は、いつもながら窮屈で居心地の悪いものであった。伯母も美しいといえば美しいが、眼許の険は幾ら化粧でもごまかせない。値踏みをする眼で始終見られ、微笑んではいても眼は笑ってはいない。吹雪の夜のように凍てついており、隙あらばチュソンに何か決定的な弱みがないかと探っているようでもある。
いつもなら伯母と向き合っている時間は苦痛でならないのに、今日だけは違った。チュソンの眼は伯母に向けられていても、その実、伯母を見てはいなかった。彼はずっと先刻見たばかりの美しい姉妹ー正しくは緑の衣服を纏った姉姫を思い出していたのだ。
作品名:裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】 作家名:東 めぐみ