尊厳死の意味
自分の彼女は、その人と会話をしたという。しかも、まったく同じ行動を自分がするので、五分後の行動パターンが分かるというので、対応が取りやすいという。
しかし、彼女には一つ懸念があった。
「今は、五分後にあなたが叶わず現れるから、五分前のあなたが、その時の存在していると分かるんだけど、もし、五分後にあなたが現れなければ、どういうことになるのかを考えてみると、これほど怖いことはないのよ」
というではないか?
「どういうことなの?」
と聞くと、
「五分後にあなたが現れることで、あなたの存在が五分後になって、間違いではなかったと感じるのよ。でも、もし、五分後にあなたが来なかったら、あるいは別の行動をとったとすれば、あなたか、私のどちらかに問題が生じたことになる、つまり、ひょっとすると、私はその瞬間、五分後の私と入れ替わっているかも知れないし、あるいは、立場が逆転しているか何かで、あなたが、今度は二人の私を意識するようになるのかも知れないと思ってね」
と彼女はいうではないか。
つまり、時間を飛び越える存在の自分は、ドッペルゲンガーではありえないということだ。むしろ、二人とも本当の自分であり、どちらかが、どちらかの自分の生殺与奪の権利を持っているのではないかと思う。
発想がかなり奇抜であるが、そもそもドッペルゲンガーというのも、発想としては奇抜なものであり、同じ空間で同じ時間に存在できるはずのない人間の存在を表そうとするのだから、理屈だけでは理解できない何かが存在しているのではないかと思うのだった。
そこで考えたのが、今回、屈辱的な思いをした例の伝染病であるが、それは菌ではなく、ウイルスであった。
流行り始めて、ちょうど一年くらいが経っていたので、第三波が収束したかと思えば、落ち着く間もなく第四波が襲来してきた。
その頃には、
「変異種株」
と呼ばれるものが出てきて、追いかけてきたものが姿を変えて、レベルアップしているのだ。
ウイルスとしても、必死で生きようとするので、変異しても不思議ではない。それはまるでウイルス対策ソフトと、コンピュータウイルスとの闘いのようであり、毎回逃げれば追いかけるというような、距離の縮まらない競争を日夜繰り広げている永遠に終わることのない戦いに似ていた。
さらにそれに尊厳死の考え方を当て嵌めると、尊厳死を認めるかどうか、確かに考え方は人それぞれであるし、尊厳死というものに対して、本当であれば、直面して自分がまとめなければいけない人たちが、ずっとその責任から逃れ、問題意識を取らないようにここまで引き延ばしてきたと言ってもいい。
五分前の自分も、五分後の自分もどちらをも知っている彼女のような人が、尊厳死というものを、自分の関わるべき問題だとして考えたとすれば、その結論は意外をすぐに見つかるもののように思えてならなかった。
五分間というものが、長いか短いかというと、一番中途半端な時間に感じられる。そういえば、最近の誠也は、中途半端という考えを、何かをテーマに考察している時、感じているような気がした。
その中途半端という発想も微妙で、何に対して中途半端なのか、そして、その元になるものが本当に中途半端ではない、限りなく、完全に近いというものではないかと考えるのだった。
そのことを考えていると、ずっと先を見ているつもりで、気が付けば、時間が戻ってしまっているのではないかと思うことがあった。それこそ輪廻の考え方で、ウイルスソフトの発想、さらには屈辱的な経験、そして、五分前の自分とに結び付いてくる。
限りなく中途派のはない状態にして、繰り返している自分を意識の中で捉えることができると、尊厳死というものへの発想が、本当は正解ではないかと感じるように思えるのだった。
さらに、父という人間が、ひょっとすると、数十年後の自分だと考えることが、どうしても自分であってほしくないということで、必死でその存在を消そうと思いながらも、逆らうことのできない運命のようなものを感じるのだろう。
今、尊厳死であったり、安楽死という発想を抱いている時、まわりからそんな話を訊かされたのは、まるで自分の願望を促進しているかのようだった。聞いたという話も実は自分の心の声を他人の口を介して改めて聞かされたかのように思えるのは、一体どういうことなのだろうか?
しばらくして父親が亡くなった。死亡原因に関しては、病院は公表しない。死因に関しては報告書に命じされていたが、どこかに疑えばいくらでもおかしな部分はあるようだった。
だが、誰もそれに関して言及しようということはない。知らぬふりをしていると言ってもいいだろう。影のようなウワサが燻っているが、まるで都市伝説の類だった。
「この病院には、昔からそういうのがあるのよ」
と看護婦は話していたが、どうやら、入院患者のほとんどが、それを知っていてわざとこの病院に入院しているようだ。
それにはいろいろ理由があるというが、そのほとんどは、この世に残す家族の幸せを祈るなどということはなく、天国だか地獄だか分からないが、すべてをあの世に持っていくというものであった。これも一種の尊厳死とでもいうのだろうか? 親子、家族の確執を、凝縮した思いを持って、この病院で最期を迎えた人は、一体何を、あの世で考えているのだろう……。
( 完 )
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