神の輪廻転生
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。今回もかなりの偏見を持った発言をしていますが、フィクションです。ミステリーっぽくない内容ではありますが、ある意味最後で明かすトリックを使っていることで、ミステリーというジャンルになります。
神様の存在
里穂は、
「自分には神様がついている」
と思っていた。
どうしようもない自分に最近までは、
「神も仏もないものか」
と感じていたが、それが最近になると、そうでもないと思えてきたのだ。
何かを考えようとすると、悪いことしか思い浮かばない。本能のままに行動すると、必ず誰かを傷つけてしまう。そんな自分に嫌気がさしていたが、自分がこんな生き方しかできない不器用な人間であるということは自覚している。(実際には、後述のように神は存在しているのだった)
「私、不器用ですから」
などという昔のテレビCMにあったように、昭和の時代であれば、不器用というのも、愛嬌の一つだったのかも知れないが、今では笑い話にもならない。
そんなことは分かっているのだが、特に男関係においては、節操がなかった。
自分でも可愛いと思っている。もちろん、鏡を見た時の思いきり贔屓目に見たことによる感想だが、それなのに、
「自分でも」
とはどういうことなのだろう?
「自分では」
にしてしまうと、言葉上、あたかも自己満足でしかない顔を綺麗だと思う、
「痛いやつ」
ということになるだろう。
だが、実際には、たくさんの男が自分のまわりに集まってきているのは事実だ。ただ、その連中が彼氏としてのレベルに到底追いついていないことが分かっている。里穂のまわりに群がって食うる男たちは、誰もが自分が彼氏だなどと思っていないだろう。その証拠に皆束縛されることを嫌う人ばかりで、下手に束縛しようものなら、
「彼女でもないくせに、余計なことをいうんじゃない」
と言って、罵声を浴びせてくることだろう。
里穂だって、自分でも彼氏だと思っていないくせに、目と向かって、
「彼女でもないくせに」
などと言われると、自尊心を傷つけられたという思いから、食って掛かることだろう。そんな時の盧浦は自分に抑えが利かなくなり、そのまま大喧嘩になってしまうと想像される。
相手の男だってそうだ。里穂を彼女ではないと思っているくせに、里穂が他の男といることを面白くないと思っているのだ。だからなるべく里穂が自分と一緒にいない時は。自分の目の届かないところにいてほしいと思っているのだ。実に都合のいい考えではあるが、お互いに似たようなものだからである。
しかも、里穂が付き合っている男たちは。どいつもこいつも中途半端な連中ばかりで、男前ではあるが、その分、どこかが足りない連中も多かった。
ホストクラブで勤めていたはいいが、ヘルプがきつくてやめてしまったり、アイドルにでもなろうと上京したが、レッスンがきつくてやめてしまったり、女性関係にゆるくてアイドル事務所を首になったりなどという、そんn中途半端な連中ばかりだった。
彼らのことをろくでもないと言ってしまうのがいけないことなのかも知れないが、一番悪いのは、その連中に一本通った筋がないことだった。
そんな、一人では中途半端な連中でも、数人寄れば、やっと一人前だと考えれば、それで十分だった。しょせんは寂しさを紛らわすために自分のまわりに侍らせているという程度のものである。本当に好きになれるような人がいるとは思えなかった。
そう、そんな連中は、
「いかにも本能のままに生きている連中だ」
と言ってもいいのではないだろうか。
里穂も人のことはいえない。
「自分も本能のままに生きていて、人と関わるのは嫌なくせに、孤独も嫌いだ。だとすれば、中途半端な本能で行動するような男連中を数人抱え込めばいい」
というくらいに考えていた。一種の、
「お姫様気質」
と言ってもいいだろう。
ここで、女王様と言ってしまうと、SMなどのS性があることになるが、里穂は自分のことを、少なくともSではないと思っている。男性をいたぶって楽しむという趣向はなく、黙って愛でていることは嫌いではないが、どちらかというと、慕われることに喜びを感じていた。だが、その思いがS性からくるものではないかと思うこともあり、自分のまわりに侍らせている連中とは、紙一重のところで、自分がお姫様になっているだけで、一歩間違えれば逆になることも十分にあったと思う。
里穂の中にあるのは、S性というよりもM性の方ではないだろうか。男とのセックスの中での自分は、ただ愛でているだけで、自分からは決して何もしない、受け身のオンナになっていた。
一人の男に抱かれながら。別の男と比較している里穂は、男たちから見れば、S性を感じさせる瞬間もあるのだろうが、やはり、根本はMなのであろう。情事の最中には男によって連れていかれるお花畑を創造していて、そのお花畑は夢から覚めても忘れているわけではない。
お花畑に咲いている花は、いつも頭の中に創造されたものであるとして、記憶から消えることはない。いや、記憶に移ることはなく、褪せることのない美しさをずっと保って意識されているものだった。
お花畑的発想というと、何か都合の悪いことや、問題のあることでも、そんな感覚に目を瞑り、ポジティブ的な発想によって、すべていい方向に進んでいると思い込むことであった。
「だから、私は頭の中にあるお花畑をずtと意識し続けているのかしら?」
と感じていた。
「お花畑的な発想は、人からバカにされるだけで、自分の成長の妨げでしかなく、百害あって一利なしと言ったところではないだろうか?」
とは思うのだが、お花畑的発想がなくなると、もう自分ではなくなってしまうという思いが強く、そのせいか、
「お花畑を創造できなくなると、私は私ではなくなってしまうんだ」
と感じるようになった。
本来であれば、それが一番いいのかも知れないが、それで問題が解決するわけではない。里穂はそこまで相手のことを考えられる性格ではなかったはずだ。
何事も自分が一番であり、それが、自分の存在意義にまで繋がっているなどと思っていた。そういう意味で、里穂は人間ではないと言ってもいいかも知れない。
里穂が自分を考える時見えているのは、お花畑だけではない。まわりに群がってくる男たち。彼らは自分から近寄ってくるわけではなく。里穂が自分でそんな男子連中を引き付ける魔力を持っているのではないかと思っている。
中途半端な連中には彼らなりの立ち位置が分かっていて。
「どうせ俺らには、まともな彼女なんかできっこないんだ。遊び相手になる女性を何人か持っていれば。それでいいんだ」
という発想があった。
この発想は、里穂の発想と同じではないだろうか。
「類は友を呼ぶ」
神様の存在
里穂は、
「自分には神様がついている」
と思っていた。
どうしようもない自分に最近までは、
「神も仏もないものか」
と感じていたが、それが最近になると、そうでもないと思えてきたのだ。
何かを考えようとすると、悪いことしか思い浮かばない。本能のままに行動すると、必ず誰かを傷つけてしまう。そんな自分に嫌気がさしていたが、自分がこんな生き方しかできない不器用な人間であるということは自覚している。(実際には、後述のように神は存在しているのだった)
「私、不器用ですから」
などという昔のテレビCMにあったように、昭和の時代であれば、不器用というのも、愛嬌の一つだったのかも知れないが、今では笑い話にもならない。
そんなことは分かっているのだが、特に男関係においては、節操がなかった。
自分でも可愛いと思っている。もちろん、鏡を見た時の思いきり贔屓目に見たことによる感想だが、それなのに、
「自分でも」
とはどういうことなのだろう?
「自分では」
にしてしまうと、言葉上、あたかも自己満足でしかない顔を綺麗だと思う、
「痛いやつ」
ということになるだろう。
だが、実際には、たくさんの男が自分のまわりに集まってきているのは事実だ。ただ、その連中が彼氏としてのレベルに到底追いついていないことが分かっている。里穂のまわりに群がって食うる男たちは、誰もが自分が彼氏だなどと思っていないだろう。その証拠に皆束縛されることを嫌う人ばかりで、下手に束縛しようものなら、
「彼女でもないくせに、余計なことをいうんじゃない」
と言って、罵声を浴びせてくることだろう。
里穂だって、自分でも彼氏だと思っていないくせに、目と向かって、
「彼女でもないくせに」
などと言われると、自尊心を傷つけられたという思いから、食って掛かることだろう。そんな時の盧浦は自分に抑えが利かなくなり、そのまま大喧嘩になってしまうと想像される。
相手の男だってそうだ。里穂を彼女ではないと思っているくせに、里穂が他の男といることを面白くないと思っているのだ。だからなるべく里穂が自分と一緒にいない時は。自分の目の届かないところにいてほしいと思っているのだ。実に都合のいい考えではあるが、お互いに似たようなものだからである。
しかも、里穂が付き合っている男たちは。どいつもこいつも中途半端な連中ばかりで、男前ではあるが、その分、どこかが足りない連中も多かった。
ホストクラブで勤めていたはいいが、ヘルプがきつくてやめてしまったり、アイドルにでもなろうと上京したが、レッスンがきつくてやめてしまったり、女性関係にゆるくてアイドル事務所を首になったりなどという、そんn中途半端な連中ばかりだった。
彼らのことをろくでもないと言ってしまうのがいけないことなのかも知れないが、一番悪いのは、その連中に一本通った筋がないことだった。
そんな、一人では中途半端な連中でも、数人寄れば、やっと一人前だと考えれば、それで十分だった。しょせんは寂しさを紛らわすために自分のまわりに侍らせているという程度のものである。本当に好きになれるような人がいるとは思えなかった。
そう、そんな連中は、
「いかにも本能のままに生きている連中だ」
と言ってもいいのではないだろうか。
里穂も人のことはいえない。
「自分も本能のままに生きていて、人と関わるのは嫌なくせに、孤独も嫌いだ。だとすれば、中途半端な本能で行動するような男連中を数人抱え込めばいい」
というくらいに考えていた。一種の、
「お姫様気質」
と言ってもいいだろう。
ここで、女王様と言ってしまうと、SMなどのS性があることになるが、里穂は自分のことを、少なくともSではないと思っている。男性をいたぶって楽しむという趣向はなく、黙って愛でていることは嫌いではないが、どちらかというと、慕われることに喜びを感じていた。だが、その思いがS性からくるものではないかと思うこともあり、自分のまわりに侍らせている連中とは、紙一重のところで、自分がお姫様になっているだけで、一歩間違えれば逆になることも十分にあったと思う。
里穂の中にあるのは、S性というよりもM性の方ではないだろうか。男とのセックスの中での自分は、ただ愛でているだけで、自分からは決して何もしない、受け身のオンナになっていた。
一人の男に抱かれながら。別の男と比較している里穂は、男たちから見れば、S性を感じさせる瞬間もあるのだろうが、やはり、根本はMなのであろう。情事の最中には男によって連れていかれるお花畑を創造していて、そのお花畑は夢から覚めても忘れているわけではない。
お花畑に咲いている花は、いつも頭の中に創造されたものであるとして、記憶から消えることはない。いや、記憶に移ることはなく、褪せることのない美しさをずっと保って意識されているものだった。
お花畑的発想というと、何か都合の悪いことや、問題のあることでも、そんな感覚に目を瞑り、ポジティブ的な発想によって、すべていい方向に進んでいると思い込むことであった。
「だから、私は頭の中にあるお花畑をずtと意識し続けているのかしら?」
と感じていた。
「お花畑的な発想は、人からバカにされるだけで、自分の成長の妨げでしかなく、百害あって一利なしと言ったところではないだろうか?」
とは思うのだが、お花畑的発想がなくなると、もう自分ではなくなってしまうという思いが強く、そのせいか、
「お花畑を創造できなくなると、私は私ではなくなってしまうんだ」
と感じるようになった。
本来であれば、それが一番いいのかも知れないが、それで問題が解決するわけではない。里穂はそこまで相手のことを考えられる性格ではなかったはずだ。
何事も自分が一番であり、それが、自分の存在意義にまで繋がっているなどと思っていた。そういう意味で、里穂は人間ではないと言ってもいいかも知れない。
里穂が自分を考える時見えているのは、お花畑だけではない。まわりに群がってくる男たち。彼らは自分から近寄ってくるわけではなく。里穂が自分でそんな男子連中を引き付ける魔力を持っているのではないかと思っている。
中途半端な連中には彼らなりの立ち位置が分かっていて。
「どうせ俺らには、まともな彼女なんかできっこないんだ。遊び相手になる女性を何人か持っていれば。それでいいんだ」
という発想があった。
この発想は、里穂の発想と同じではないだろうか。
「類は友を呼ぶ」