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「計算間違えたわ。六百六十やな」
川宮が呟くように言い、吉田は笑った。
「六が三つで、悪魔の数字ってか? さすがにそこまでのこじつけはせんわ。てか計算苦手やろお前」
陰謀論が好きな人間は、縁起の悪い数字になるまで足したり引いたり、忙しい。吉田はそういう話をよく川宮にしていたが、それをやめた途端に川宮の渓流釣りエピソードが始まるから、先手を打っているだけのことだった。
二人は共に三十歳、全ての部品が大づくりで、大は小を兼ねるというコンセプトで設計されたような吉田に対して、川宮はその真逆の、最小限の部品で必要充分の動作を保証されただけの、小柄で目立たない雰囲気を持っている。付き合いは五年に渡り、学生時代を共有していないどころか、外見と同様、その生い立ちも真逆だった。
吉田は大学時代こそサークルを掛け持ちするぐらいエネルギーに溢れた若者だったが、新卒で入った会社での立ち回りが上手くいかず、二年で退職してからは、店員のアルバイトを掛け持ちしていた。エネルギーはどこかへ発散しなければならず、その方向がいかに間違っていようと、手っ取り早いのは笑顔を武器に店員を続けることだった。
対して川宮は、高校を出てから自動車部品メーカーに就職し、五年間それ以外の世界を知ることなく、朝八時に出勤して、夕方五時半から七時の間に帰るということを続けていた。部署の異動もなく、人事上の変化は、入社したときに定年間際だった上司が予定通りの年に定年退職しただけ。何の変化もない職場だったが、不意に会社自体が廃業し、その変化は川宮にとっては初めての衝撃だった。どうやって会社という組織に属すればいいのか、一度は経験しているはずだが、そのスタート地点は未だに思い出せないままでいる。
吉田がランドクルーザーのシフトレバーに触れてスピードを落とし、川宮はドリンクホルダーに入った缶コーヒーを掴んだ。一口飲んで戻したとき、手にべた付く感触が残り、川宮は顔をしかめた。
「こぼれとるやんけ」
吉田は、ウェットティッシュを取り出して手を拭く川宮に言った。
「誰と喋ってんねん」
「缶や」
川宮は缶コーヒーの中身がこぼれた理由が考え付かない様子で、顔をしかめた。吉田は最後の交差点を左折し、落ち葉が道路の両端を埋め尽くす坂を上り切った。その終点にあるのは、古いが立派な造りの木造民家。その隣には場違いなぐらいに大きな屋根付きの車庫があり、裏手には炭焼きに使われていた大きな窯がある。典型的な、田舎の金持ちの家。
「さっきぶつかられたときに、こぼれたんやろ」
家のオーナーである真壁は五十五歳、住んでいる家の通り、典型的な田舎の金持ちで、記憶力が良く、どちらかといえば神経質な部類に入る。そして、ありとあらゆることに神経を配りすぎた副作用か、人を笑わせるために特化したような禿げ方をしている。棚ぼた式に引き継いだ実家だから、自分で成し遂げたものではない。真壁は酒が入ると、吉田と川宮に対して懺悔するように『棚ぼた式』の話を語ることが多かった。
シャッターが開きっぱなしになった車庫の前で吉田がランドクルーザーを転回させ、バックホーンの音が車庫の中へ響き始めたとき、グレーのジャージ上下を着込んだ真壁がひょろりと現れると、シャッターを後ろ手に閉めた。エンジンを止めた吉田が運転席から降りるなり、真壁は言った。
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
吉田が言うと、助手席から遅れて降りた川宮が頭を下げた。真壁は同じように『お疲れさま』と言い、自分が運転してきたかのように大きく伸びをした。
「自分ら、疲れはこんな感じ?」
「いえ、そこまでは」
川宮が言うと、真壁は伸びをやめてリアハッチを開いた。
「ほな、もーちょい頑張ってくれる?」
車から降ろすのを手伝ってくれ、という意味だ。吉田は初めからその気で、上着の腕を捲ると真壁の隣に立った。目隠しと猿ぐつわをはめられ、引っ越し用のロープで手足を巻かれた女。遅れて隣に来た川宮が足を掴み、吉田は肩を持ってランドクルーザーから出した。腕を縛るロープが緩んでいることに気づいたが、真壁からは見えないよう、背中を下にして地面に寝かせ、窒息していないことを確認してから猿ぐつわを緩めた。
真壁、つまり『典型的な田舎の金持ちの家』の本業は、人さらいだ。誰かの恨みを買ったり、何かに失敗したとされる人間をここへ連れてくるのが、吉田と川宮の仕事だった。二人の仕事は『連れてくるまで』で、その後は依頼者に引き渡されるのか、そのまま殺されるのか知らないし、知りたいとも思わない。吉田がずれた眼鏡の位置を調整しながら考えていると、真壁はいつも通り、目隠しをされたままの女を真上から見下ろし、相手からは見えないことを承知で、初対面の誰もが気を許す、いつもの笑顔を向けた。
「こんばんはですー」
吉田と川宮は、後ずさるように真壁から離れた。リアハッチを閉めながら、川宮は思った。去年の酒席で、ホステスが真壁に『笑顔が素敵よ』と言ったのは、プロだからこそ成せた技で、苦肉の策だったのだろう。実際、笑っていないときは褒める場所がない。
吉田は、真壁の挨拶に会釈で返すと、小さく息をついた。誘拐自体は簡単で、年に数回のスリリングなイベントみたいなものだ。特に最初は、まだ分かりやすかった。例えば『借金を返してくれないから、間に入ってくれと言われた』とか。酒の席でカジュアルにそういった与太話が始まり、現実味を帯びて、真壁が必ず『お車代』と呼ぶ報酬の話が出る。捕まえて車で運んでくるだけだから、ある意味『お車代』で意味は成している。ただ近年は、最初の与太話が省略されて、いきなり本題に入ることが増えている。
五年前、三人は同じ夜に居酒屋で知り合った。お互い一人で飲んでいたのが、店を出るときには肩を組んでいるぐらいに、意気投合していたのだ。原因はその店の常連客である浜井という男で、運悪く隣で飲んでいた川宮に、延々と絡み続けていた。トイレから帰ってきた吉田が後ろを通り過ぎるときに、浜井の振り上げた手が当たり、吉田はそれを掴んだまま離さず、床に引き倒した。吉田は、その後のやり取りを今でも一字一句覚えていた。テーブル席で一人で飲んでいた真壁が笑顔で場に加わり、節をつけて『いてこませ、いーてこませ』と歌い出したのだ。客は他におらず、少しだけ事情通な店主だけが真っ青な顔をしていた。真壁のひょうきんな様子に吉田が笑い、川宮がようやく場の空気を読み終えて頬を緩めたとき、真壁は頭を押さえてうずくまる浜井を見下ろし、言った。
『気悪いおっさんやな、お前なあ?』
吉田と川宮を引き寄せるようにカウンターに座ると、浜井が並べていた皿とグラスを地面にはたき落として粉々に割り、店主に言った。
『浜井とこれ片付けて、のれん下げて戻ってこい』
吉田と川宮は、真壁が店主に何かをするのではないかと心配したが、浜井を帰した店主が言う通りにのれんを下げて戻ってきて、割れたグラスを片付け終えたとき、真壁は言った。
『ごめんね。あのおっさんは、ああでもせなまた来よる。好きなだけ伝票につけてくれな』