Shred
車がまっすぐ止まることを断固拒否するようにふらつき、ただでさえ視界の悪い夜道にとどめを刺すような雨粒が、スロー再生になった。見通しの悪いカーブの先に停まっていたランドクルーザー。そのベージュの車体が見る見るうちに迫り、藤松が運転するフィットは牽引フックにめり込むように追突して停まった。壁のようにびくともしなかったランドクルーザーの中で頭が動き、男が二人乗っているということに気づいた藤松は胃が締め付けられるのを感じた。雨がずっと降り続ける中、意を決してドアノブに触れ、今や唯一の安全地帯に感じる運転席から降りると、言った。
「あ、あの。お怪我はありませんか?」
「いや、そっちこそ大丈夫ですか?」
運転席から降りてきた長身の男は、街灯に背中から照らされて影絵のように見えたが、その口調は穏やかだった。藤松が頭の中で光る危険信号を少しだけ緩めると、男はスマートフォンのライトを点けて、追突された部位に光を当てながら見下ろした。
「フックに当たってもうたか。おれはええけど、バンパー割れたんちゃいます?」
男がフィットの方を心配していることに気づいた藤松は、手を横に振った。
「いえ、あの。追突したのは私なんで……」
「まあ、そうやけど」
男が言ったとき、助手席から降りた小柄な男が棒のようなものを投げ、藤松は悲鳴を上げて飛びのいた。目の前の男がそれを手に取ったときに街灯の光が差して、傘だということに気づいた藤松は危険信号を再度緩めようとしたが、今度は上手くいかなかった。男は傘を開くと、藤松に差し出して、自分は上着のフードを被った。
「あの、弁償はしますので」
傘を受け取った藤松が言うと、男は肩をすくめた。
「丁寧にありがとうございます。ほんまに首とか痛くないですか? こういうのって、後から来ますよ」
藤松はこの十秒後に骨が折れていたことが分かっても言わない覚悟で、うなずいた。男はそれ以上追及することはなく、話題を切り替えるように言った。
「工場とか分からんかったら、紹介しますけど。このままはよう乗らんでしょ」
「それは、はい。ありがとうございます。あの本当に、後から痛くなったとかでも全然かまわないので、連絡を頂ければ」
藤松はそう言って連絡先を交換し、吉田という名前を頭に叩きこんだ。助手席から傘を投げた男は名乗らずに、屈みこんでバンパーの傷を眺めていた。
「ほな、行きますわ」
吉田が言うと、助手席の男が合図を受けたように助手席に戻り、藤松は吉田に傘を返して頭を下げた。
「失礼しました」
顔が逆光から逸れて、黒縁眼鏡の奥に隠れる目が一瞬だけ覗いた。そんなに悪い人じゃなさそうだ。そう自分に言い聞かせながら、藤松は運転席に戻る吉田の後ろ姿を見送った。ブレーキランプが真っ赤に光ったとき、真っ白に曇ったリアウィンドウの端に、子供が結露した窓によくやるように、指文字でアルファベットが書かれていることに気づいた。やや形の崩れた『S』と、その隣にはいびつな半円。それ以上の詮索を許さないようにブレーキランプが消え、ランドクルーザーは発進してしばらく経ってから、ヘッドライトを点けた。
日本でよかった。海外なら銃で撃たれていたかも。全ての緊張から解き放たれた藤松は、三年前に中古で購入したフィットを見下ろした。シルバーのバンパーは割れて黒い線が入り、ナンバープレートが若干右に曲がっているようにも見える。運転席に戻ると、それはもはや安全地帯といった特別な存在ではなく、ずっと注意力を逸らし続けていた考え事が、濡れた服の重みと共に戻ってきた。
『オーバーハングの短い車は、駐車が楽やで』
「車博士……。ほんまにさあ……」
独り言を漏らし、藤松はヘッドレストに頭をくっつけた。もうタカシという短い名前以外で思い出したくないし、苗字も誕生日も全部忘れたい。二十三歳から二十七歳まで、四年付き合ったのが、先週末、唐突に終わったのだ。好きな人ができたなら、まだ納得できる。もっと悪いパターンで、『タカシ』は好きな人がいなくなったのだ。ここ最近は気力がないように見えたけど、まさかそれが、別れ話を切り出す面倒さから来ているとは気づかなかった。
『怒りそうやなと思って』
「子犬かお前は……?」
タイミングのずれた口パクのように、今さら怒りの言葉がぽんぽんと口から出てくる。このフィットは、車博士だった『タカシ』のおすすめで選んだ。ロータリーエンジンがどうとかいって、変な色のRX−7を手放そうとしないのは分かっていたから、オートマの車は私が乗っておこうとか。全てが終わった今となっては、本当にその発想一つ一つが馬鹿すぎる。助手席に置いた鞄を起こすと、藤松はノートパソコンが衝撃で壊れていないか確認するために、膝の上に置いた。仕事熱心過ぎる。大学時代の同期は皆そう言う。学部生の頃は、パソコンのモニターを見ている様子があまりにも前のめりだったらしく、『里美マシーン』と呼ばれてきた。光栄だし、心配してもらえるのも正直ありがたい。来週末にまた会うけど、なんて言えばいいだろう。第一候補は『別れた』、第二候補は『振られた』、本音爆弾はお酒が回ったときのために、今から考えておこう。
私が仕事人間だということは、タカシが再び車の世界に吸い込まれていったことと、無関係ではないだろう。色んな話を聞いてもらったし、愚痴も多かった。でも、考え方は変わらない。今でも同僚に対しては、全力でやらないで、よく疲れた顔ができるなと思っている。藤松はノートパソコンの点検を終えると、鞄に戻してシフトノブをドライブに入れ、事故などなかったように走り出すフィットのハンドルを強く握った。付き合い始めたばかりの頃、タカシのRX−7は追突事故の被害者になった。隣に乗っていたけど、タカシの対応は百点満点だった。まず助手席に座る私の心配をした後、一瞬だけ後ろを振り返って鬼の形相になったけれど、本音を堪えて運転席から降り、相手に『怪我はないっすか』と聞いたのだ。
藤松はワイパーの勢いを強めながら、ため息をついた。車を運転するだけで思い出に繋がってしまうのなら、全てから解放されるためには、このハンドルすら放して、その辺の壁にまっすぐ激突するしかない。
ランドクルーザーのシフトレバーを四速に入れたとき、助手席に座る川宮が言った。
「真面目そうな人やったなあ」
吉田は眼鏡についた雨粒を避けるように目を細めながら、うなずいた。
「あんな申し訳なさそうな顔は、久々に見たわ」
一時停止を守っていただけだが、そもそも停止線自体がカーブの先にあるから見通しが悪い。あまり使わない道だったが、川宮のナビでは最短経路だった。
「この道は、縁起悪いな」
吉田が言うと、川宮は道具が満杯に入ったポーターのリュックサックを前に抱え、背もたれに対して虚勢を張るように体を伸ばしながら、笑った。
「またゲン担ぎかいな」
川宮は、流れていく景色の中に道路標識を見つけて、吉田の横顔を見ながら続けた。
「この道路は、六号線や。それに六百足してみ?」
「六百六? それが何やねん」
吉田が即答し、車内を満たす音は、ディーゼルのエンジン音と、オーディオから静かに流れるジャックジョンソンの曲だけになった。