Shred
「これ……」
真壁は『これ、姉ちゃんから渡したってくれや』と言った。四角い箱で、中身はゲームのコントローラー。門林の首が軋むように回り、その目が藤松の顔を見上げた。体格差があっても、首が埋まりそうな猫背の門林と、背筋を伸ばして座っている藤松では、ちょうど目線の位置が同じか、門林の方が低いぐらいだった。
「ゲームのコントローラーよね。真壁さんが買ってきてくれたんよ」
藤松が続けると、門林の表情は少しだけ亀裂が入ったように歪み、それはぎこちない笑顔に変わった。
「あの。どうも」
照れくさそうに頭を下げると、門林は箱に閉じ込められたコントローラーを眺めた。藤松は爪を引っ掛けてテープを切ろうとしたが、手が震えて上手くいかずに、唇を噛んだ。どうにかして開けないといけない。でも、最近の包装は頑丈にできていて、爪の力ではどうにもならないことが多い。家なら、ハサミで切るだけ。でも、この場で自分に矛先が向きそうな予感のする凶器は、貸りたいなんて言えない。ハサミある? と気軽に聞けば、門林は文房具入れか、もしくはその辺の床に散らばった漫画の下から、ハサミを出してくれるだろうか。
「固いね……」
「点線を押す」
門林が言い、藤松は点線になった半円形の切れ込みを見つけて、自分が教師であることを思い出したように笑った。指を押し込んでパッケージを破り、中身を取り出しながら言った。
「出せた。ありがと」
門林は猫背のまま、肩を揺すって笑った。藤松はコードを束ねるワイヤーを解いて、ゲーム機を探した。言葉が通じないのではと思ったが、そんなことはなかった。門林の身のこなしを見てすぐに思い出したのは、教職課程の中で受け持った養護学級での記憶だったが、相手は小学生だった。自分より頭一つ背が高い上に、横幅がベッドの幅と同じぐらいある大男ではなかった。藤松がコードを伸ばし終わったとき、門林がDVDのパッケージを横にどけて、ゲーム機を引き寄せた。コントローラーの受け口が一つ空いていて、藤松がコネクタを挿し込もうとしたとき、門林の右手が押しつぶすような勢いで藤松の右手首を掴んだ。
「間違えたら! 壊れる!」
藤松は思わず飛びのこうとしたが、門林に捕まえられた右手首は万力のように固定されて、全く動かなかった。
「壊れる!」
門林は部屋全体に向かって大声で叫ぶと、ゲーム機を指差した。藤松はその言葉の意味をどうにか解釈して、コントローラーから手を離した。コネクタが床に音もなく落ちて、門林は藤松の右手首を解放すると、言った。
「壊れたら、買い替えるんが大変」
藤松は過呼吸を起こしそうな肺の動きを押さえるために胸へ手を当て、何度もうなずいた。
「ごめん。うん、分かる。大変よね」
「そう、大変。オヤジさんも困る。それはよくない」
門林は自分に言い聞かせるように早口で言い、コネクタをゲーム機に突き刺した。藤松は、それが反対だったら今度こそ暴れるのだろうかと思って無意識に体を引いていたが、コネクタは難なく挿し込まれて、門林は落ち着いたようにベッドからずり落ちた即席の座布団に戻ると、言った。
「オヤジさんは、困ると怒る。変な奴」
藤松は、本当に混乱しているような表情の門林を見て、一旦心の奥底へ逃げ帰った教師の勘を呼び起こした。
「真壁さんのこと? オヤジさんって呼ぶの?」
「そう、二人目のオヤジ」
あまり深く食い込むと、また地雷を踏みそうだ。藤松は、体を起こして対話をするための姿勢に戻ると、言った。
「門林さんは、なんて呼ばれてるん?」
「カドバ」
門林はそう言うと、ゲーム機の電源を入れた。ランプが緑色に光るのをしばらく眺めた後、言った。
「先生は?」
藤松は息を呑んだ。私は一度も、自分が教師だとは言っていない。何も答えられないでいると、門林は言った。
「泣いとる」
指で自分の頬に触れて初めて、藤松は涙の存在に気づいた。一旦拭うと、もう新しい涙は流れてこなかった。同時に、右手首が折れているのではないかと思うぐらいに痛み始めて、警告を発した。それ以上の自己主張を押さえこむように左手で庇いながら、藤松は思った。危険な相手だ。それは間違いない。でも、殺されそうだからといって、不用意に傷つけたくはない。
「私は、フジって呼ばれてた。ゲームする?」
藤松が言うと、門林はテレビに目線を向けた。門林がゲームを選んでいるのを見ながら、藤松は姿勢を少しだけ崩して、手を床についた。最小限の動きでゲームができて、そのままベッドに寄りかかれば寝ることだって可能だろう。いい加減なようで、実は最大限に効率化されている。部屋の中へ取り込まれたような感覚が少しだけ薄まり、周囲を見回すだけの余裕が生まれつつあった。ここは二階で、ベッドの側に見えている窓は、上がってきた坂道を見下ろせる位置にある。来るときに見た限り、飛び降りたら足が折れる高さだ。一階へ繋がる急な階段は、走るには危険な角度だし、今逃げれば門林に追いかけられるという、妙な確信がある。それは、捕まえた小動物が自分の手から逃れようとするのを防ぐのと、よく似ている。あまりにも言うことを聞かなかったら、その圧倒的な体力差で、殺してしまうことだって。藤松は姿勢を変えたとき、床についた手の先が毛皮のようなものと触れていることに気づいて、視線を落とした。それは、引き千切られた人間の髪の一部で、先端は黒く乾いた血の塊になっていた。
何気なく落ちているものから、自分の手首。自分を取り巻く全てが『今すぐ逃げろ』と危険信号を発する中、門林がスクロールしていたゲームタイトルの画面が止まった。藤松が床から手を引っ込めてテレビに目を向けると、門林はコントローラーを差し出して、呟いた。
「これ」
藤松がコントローラーを受け取ると、門林は決して絡まったりすることがないよう、長すぎるコードを解いて、綺麗に広げ始めた。