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「何やろな。今回のSOSの件にしても、ちょっと前の真壁やったら、確実にカドバを仕向けてきてたやろ」
吉田が言うと、川宮はその角度から考えたことがなかったように、少し首を傾げた。
「あー、確かにな。もう還暦近いし、丸くなってきてんのかな?」
「詰めが甘いってことやろ。真壁がパクられる可能性もあるわけやん。そうなったら、おれらは確実にポリに売られる」
吉田は前のめりになると、運転席と助手席の隙間に手をかけた。川宮は結論まで導き出した様子で、振り返った。
「真壁が引退する場合は?」
「その場合は、おれらは消されるやろうね。カドバが今度こそ殺しに来るかな」
吉田の言葉に、川宮は肩をすくめた。どんな人間関係にも、満期はある。時間が完全に切れる前に、逃げ道を用意しておかなければならない。ただ、このやり取り自体も飽きが来るぐらいに何度もやっていて、今さら新鮮味はない。吉田の顔の前へ手をかざして後ろへ追い払うと、川宮はラジオのスイッチを入れた。
「とりあえず、オカマフィットの入庫を待てや」
放課後、自然と帰る時間が一緒になり、蓮町は増山と並んで歩きながら、夕日で自分と同じ色に照らされる柔らかな横顔を見て言った。
「今日は、ありがとうございました」
「そんな、かしこまらんでも。こんなんでお礼とかいいよ」
増山は、ずっと頭の中で考えていたように、ぽんぽんと言葉を紡いだ。蓮町は笑顔でうなずくと、一度後ろを振り返った。増山は駅まで歩く数分の間に、ありとあらゆる生徒に『バイバイ』や『また明日』という言葉を繰り出していた。蓮町の顔の動きに気づいた増山は、言った。
「背後、気になる人? この道は通学路やから大丈夫やけど、外れん方がいいかも。周りの治安はあんまりよくないから」
「すみません、海外生活が長かったので」
蓮町はそう言って、気づいた。そもそも同年代の人間と二人きりで歩くということ自体がなかった。学校の出口には白のBMWM5が停まっていて、その後部座席のドアが学校生活の終点。友達と遊びたいときは、そのまま一緒に乗って家まで来てもらう。もちろん運転手は、お冬さん。
「海外生活のことを聞かれるのは、めっちゃ嫌やったりする?」
増山が言い、蓮町は首を横に振った。
「いえ、そんなことはないです。興味を持ってもらえるのは、嬉しいです」
増山はショートボブの髪を微かに揺らせて小さく咳ばらいをすると、言った。
「えー、では。蓮町理緒さん。治安とかは、日本より悪かった?」
「はい。誘拐や強盗は絶対に起きるという前提で、私と父には二十四時間、護衛の人がついていました」
「やば」
増山はそう言って、救いを求めるように夕日へ目を向けた。その光はまっすぐ鑑賞するにはまだどぎつく、始めた会話を終わらせなさいと言っているように感じる。私と父、か。増山は自分の短いリアクションが間を繋いでいることを願いながら、思った。母はいないんだな。自分の家にいる、いがみ合いながらも煙草という人類の敵を接点に、かろうじて夫婦関係を保っている二人の人間。いるだけで恵まれているとは、思いたくない。でももし蓮町に母がいないとしたら、自分が置かれた環境は今までに思っていたよりも普通で、輝いているようにすら見える。増山が自分の世界に膝上まで浸かりそうになったとき、蓮町は言った。
「私が通っていた日本人学校は、送迎付きの生徒が多かったです。子供同士で決められることはあまりなくて。学校の外では、何をするにも大人がいました」
増山は委員長らしい快活な笑顔を取り戻して、言った。
「じゃあ、今こうやって二人で帰ってるやん。これってめちゃ新鮮?」
「はい。楽しいです」
蓮町はそう言って、同じように笑顔を返した。増山は夕日に顔をしかめながら笑った。こんな素直に『楽しい』と言う人は、自分自身も含めて、数年見ていない気がする。いつの間にか駅が目の前にあって、増山は言った。
「これが、駅」
蓮町は、口元を手で押さえながら笑った。
「はい、知ってます。朝はここから来ました」
顔を見合わせてしばらく笑った後、増山はパスケースを取り出して、先に改札をくぐった。蓮町に電車内での立ち位置を教え、同じ最寄り駅で降りた後、公園の方向を指差して言った。
「わたしの家は、こっちやねん」
「公園ですか?」
蓮町が驚いたように目を見開き、増山は声を上げて笑った。
「いやいや、方向。公園に住めますかいな」
蓮町が同じ方向に歩きだしたことに気づいて、増山は言った。
「うちの家、見る? 公園の方がマシかもしれんで」
返事を待つまでもなく蓮町が後ろをついて歩き始め、増山はどうしてこんなことを言ったのか、自分でも分からないまま家までの道を歩いた。今まで、人に自分の世界を知ってほしいなんて、思ったことはなかった。でも蓮町がどういう人間か興味がある以上、こちらも住んでいる世界を見せて挨拶を済ませるのは、当たり前のことのようにも感じる。最後に曲がり角を抜けて、その先にある『増山たばこ店』という看板に気づいた蓮町は、あっと声を上げた。
「増山さん、同じ名前のお店ありますよ」
「うわ、ほんまや。って、あれがうちの家よ。蓮町さん、目いいね」
人通りは少なく、向かいの民家は空き家になって久しい。増山は家の前で立ち止まると、小さく息を吸い込んで呼吸を整えた。
「まー、こんなもんですわ」
「由緒のある煙草屋さんですね」
蓮町が看板を見上げながら呟く横顔を見て、増山は整えた息を笑いと共に吐き出した。
「そう? 親にゆーとくわ。喜ぶと思う」
小さい声で言ったつもりだったが、客と応対するための曇った小窓がするりと開き、餌を求めるラッコのように顔を出した父が言った。
「はるか、どないした?」
「これがわたしの父」
増山が言い終わってすぐ、隣に立つ蓮町が頭を下げた。
「はじめまして、蓮町理緒と申します。今日一日、増山さんにお世話になりました」
「おー、悪ゴロ委員長やからな、仲良うしたってや」
増山は父の顔を押し戻すように手をかざすと、蓮町に言った。
「まー、そういうわけよ」
増山が立ち去ろうとしたとき、玄関のドアが開いてラッコの妻である母が顔を出した。
「はるか、おかえり。あら、友達と一緒?」
「うん。転校初日やから、色々と案内してた」
増山が言い、母がまた『あらー』と言い、家に上がっていきなさいという誘いを増山が全力で押し返そうとしたが結局根負けし、蓮町は増山家に通されて、気づいたときには目の前にお茶が置かれていた。
「ありがとうございます、いただきます」
蓮町がそう言ってお茶を一口飲み、増山は小さなおかきを口に放り込みながら言った。
「ごめん、うちの家は強引でさ。門限とかないん?」
「ありますけど、父は仕事の引継ぎで忙しいので、そもそも不在のことが多くて。でも、お冬さんには注意されるかも」
蓮町の口調は、そのまま先細りになって沈黙に変わり、グラスを持つ細い指先に力が入るのに合わせて、爪が顔色を失ったように少しだけ白くなった。増山はその変化の全てに気づいたが、おかきを噛むのはとりあえず中断して、そのままの口調を保った。
「お冬さんっていうのは、護衛の人?」