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増山はそのことが誇りであるようにうなずいたが、まだ蓮町がお辞儀をしたままだということに気づき、慌てて言った。
「同じクラスで委員長の、増山はるかです……、いや、と申します。お、面を上げ―い」
蓮町が驚いたように顔を上げ、藤松が苦笑いを浮かべながら、増山の首に空手チョップを打つ振りをして言った。
「増山さん、それは距離感バグってんで。蓮町さん、入って入って」
蓮町は、困惑した表情を半分残したまま中へ入り、増山が舌を出した辺りでようやく声に出して笑った。増山は発言のチケットを受け取ったように、すかさず言った。
「電車、大変やった? この時間帯はまだいいけど、あと十分遅かったらヤバいよ」
蓮町は一生分の苦難を経験したように、うなずいた。
「どこに立っていいのか分からず、他の人を真似して来ました」
「まー、座れんよね」
増山はそう言いながら、思った。これは、天然物のお嬢様だ。まずは、自分が移動するための乗り物にどうして他人がいるのかということから、解説しないといけない。電車というのは、同じ方向を目指す人間が身を寄せ合って不快な時間を共有し、ウィルスや菌をシェアする場だ。その代わり、数百円で好きなところの近くまで行ける。増山が、頭の中で広がる想像をそのままにして楽しんでいると、藤松が言った。
「蓮町さん。朝礼で簡単に自己紹介してね。その後は、私が校内の案内とかするから、できたら午後から授業を受けてほしいかな。今日のとこは、そんな感じ」
「承知しました。色々とありがとうございます」
蓮町が頭を下げ、また元の位置に頭を戻すのを待ってから、増山は言った。
「昼はどうするん? なんか買ってきた?」
蓮町は凛とした表情のまま、首を横に振った。
「いいえ。食べる場所はありますか? なければ、帰ってから二食分食べようかと思ってました」
「極端か? 購買っつーか、学食あるで。それか、今からコンビニ行っても間に合うかな? 昼に出たらしばかれるから、今の内よ」
増山は早口で言い、藤松がうなずくのを確認してから、言った。
「行こう。それも案内の内でしょ」
増山は、蓮町を職員室から連れ出し、完全に開いた正門から外へ出た。そして、並んで歩いて初めて、蓮町の方が少し背が高いことに気づいた。増山は身長百五十五センチで、十六歳としては平均的だが、蓮町は五センチほど高い。増山は、悟られないように控えめな視線を送りながら観察した。外の光を浴びると、その線の細さが改めて際立つ。内側に少しだけ巻いたミディアムロングの髪は、朝日の色が乗るとやや栗色に見えて、何より指が細長い。
「ピアノとかできる人?」
増山が言うと、蓮町は恥ずかしそうに首をすくめた。
「はい、嗜む程度ですが」
「いいなー。わたし、ピアノの曲好きでさ。自分では弾かれへんけど」
増山がそう言ったとき、生徒たちが駅の方からぞろぞろと歩いてきて、気づいた隣のクラスの男子が手を挙げた。
「おーい委員長、学校逆やぞー」
「うるさいわ、はよ登校せい」
増山は、男子の頭に空手チョップを打つ振りをすると、蓮町を保護するように男子のグループから遠ざけた。すれ違ってから後ろを振り返ると、歩く方向を間違えているような角度で、男子グループ全員が蓮町の方向に視線を向けていたが、増山と目が合った瞬間に前へ向き直った。蓮町が振り返って会釈をしていたことに気づいた増山は、前へ向き直るよう手で空気を送りながら、言った。
「男子、アホばっかやから。あんま相手にしたらあかんで」
コンビニの駐車場を通って自動ドアの前まで辿り着いたとき、身障者スペースに停められた黒のキャラバンを見た増山は、露骨に顔をしかめた。店内に入ってから、顔色が変わったことを案じるように顔を覗き込む蓮町の方を見ると、弁解するように小声で言った。
「ごめん。いや、あっこ身障者スペースやからさ」
レジを済ませた小柄な男が入れ違いに出て行き、よじ登るようにキャラバンへ乗り込むのを見た蓮町は、小さく咳ばらいをしてから言った。
「健常者ですが、背が足りてませんね」
「おいおいおーい、めっちゃシニカルやん」
増山が笑顔で目を輝かせ、キャラバンが駐車場から出て行くのを見送ると、舌を出した。
「前、見えてへんやろ」
後部座席でくつろぐ吉田に缶コーヒーを渡すと、川宮はコンビニ前の道路に合流し、高校とは反対の方向へキャラバンを走らせた。工場から共有された車検証の写真を手がかりに、まず藤松の自宅を特定した。人さらいの基本的な手順は、まず行動パターンを把握することだが、藤松里美は簡単だった。早朝に、自宅から出て行くフィットの後ろをついていっただけだが、それだけで県立双見高校の教師だということが分かった。普通の生活を送る人間の行動パターンは、簡単すぎる。できるだけ同じ行動を取るように研ぎ澄まされていく内に、無駄な動きが減るからだ。それにしても、教師という人種はどうにも苦手だ。川宮は信号待ちでキャラバンを停めると、高校生の姿を眺めながら思い出していた。ああやって、まっすぐ歩いて学校へ行けるだけでも、運がいい。担任公認のサンドバッグだった自分にとっての通学路とは、鞄を蹴られ、所持金を通行量のように徴収される地獄のような道だった。
「あんまじろじろ見んな。顔、覚えられてまうぞ」
吉田は、缶コーヒーの蓋を開けながら言った。川宮は、高校から藤松の家までの道路を逆に辿るようにキャラバンを走らせ、防犯カメラがカバーできていない道と、最寄り駅から自宅までのルートを目で確認した。
「だいぶ目立ったな。このキャラバンも今回でお役御免か」
川宮が言うと、缶コーヒーを飲み終えた吉田は喉を鳴らしながら、うなずいた。とりあえず、藤松が気づいていないという確証を取りたい。
「どないして接触するよ?」
「おれに訊くな。相手したんはお前やろ。てか、修理工場に出入りしてんのやから、入庫したら分かるやんけ。引取りのときにでも、ばったり出くわせや」
川宮は早送りのようなスピードで言い、キャラバンを路肩に寄せた。吉田は空になった缶をふらふらと振りながら、顔をしかめた。
「その最後の、ばったりが難しいっちゅうねん」
「自宅と高校前でばったりよりは、マシちゃいますの」
川宮は他人事のように言うと、大きな欠伸をした。それが大きく口を開けただけで、本当の欠伸でないことを見抜いた吉田は、笑った。
「で、工場でばったり会ったとしようや。SOSって、最近あんまり言わなくなりましたよねーとか言うんか?」
「あー、それでいい。顔色だけ見たら分かるって。もし見てたらぎょっとした顔するやろし、見てなかったら普通にそうですねーって返してくるやろ」
川宮は、今度は若干真剣さを増した口調で言った。吉田は背筋を伸ばすと、バックミラー越しに川宮と目を合わせて、言った。
「いつまでやる?」
「何を?」
川宮は短く訊き返したが、同じ主語を補っているのは、その目つきで分かった。吉田が追い打ちをかけることなく待っていると、小さくため息をついてから、川宮は言った。
「まあ、潮時かな。常にそうやけど。なんか思うとこあんの?」