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短編集123(過去作品)

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 背筋に冷や汗が走るのは気持ち悪いものだ。特に着物を着ているとシャツなどのような柔軟な衣類ではないため、生地がそのまま身体を刺激する。傷が出来てしまうのではないかと思うほどの痛さがじわじわ襲ってくるのだった。
「四郎殿」
 娘が馬上の佐久間に声を掛けた。その声は吹いてくる風さえも押し殺してしまうのではないかと思うほど、低い声であり、娘子の声などでは決してない。
「いかにも、私が佐久間四郎憲正じゃ」
 娘の目を見ているうちにいつの間にか自分がずっとこの時代にいて、見知らぬ娘に声を掛けられたと見ている者、皆が感じて不思議のない受け答えをしている。実に自然な感覚だ。
「私はお香の妹で、お静というものです。姉が昨日息を引き取りました」
「なに?」
 一瞬にして自分の立場が暗転したのは分かった。
「恋焦がれている女が死んだ」
 というだけのものではなく、そのことが何か自分の中で大きな変化をもたらしたことに気付いた。
 馬から落ちそうになった。お香の死を知ったからではない。実際に馬に乗っていて、自分の中で安定感のないことに気付いていた。
「あっ」
 鐙に掛かった足を見ると、実に薄く見えている。白いたびに着物を着ているはずなのに、茶色に見えているのだ。
 足の輪郭はあるのに、色はまったくその先の馬の毛の色だ。明らかに透けて消えているのだ。
――まさか、足が消えかかっている――
 現実的な思いが佐久間を襲う。
 タイムパラドクスというのを聞いたことがあるが、自分が時代を飛び越え、特に過去に行って、誰かの運命に関わることを行えば、それ以降の歴史はすべて狂ってしまうということだ。
 それが局地的なものなのか、それとも、全体的なものなのか分からない。学者の多くは些細なことであっても、宇宙規模で歪みが起こり、ビッグバンの原因になるという大袈裟な学説を唱えた偉い先生もいた。
 しかし今の佐久間にはそんなことはどうでもいいことだった。それよりも、自分の足がなくなりかけているのが、夢なのか現実なのか、それが大きな問題だった。
――足が透けているのと、お香の死――
 これには何か関係があるのだろうか。お香が死んだのは昨夜だという。それならもし何か影響があるとすれば、その時のはずである。このタイムラグは一体何なのであろうか。
 佐久間四郎憲正として、お香の面影を思い出そうとした。思い出すのは白い肌と、ぬくもりである。しかし、そんな意識の中に、包み込まれるような暖かさがあった。しかも水に浸かっているような感じである。
――一緒にお風呂に入った時の感覚だろうか――
 とも思ったが、どうもそれとも違っている。
 佐久間は、女性と一緒に風呂に入ることがあまり好きではない。コンプレックスのようなものがあるわけではないが、どこか恥ずかしいと思うのだ。それは男としての尊厳についてであって、そんな自分に、勇武な雰囲気を感じてしまうのは、ちとおかしなものである。
 お香と一緒に食べたお粥を思い出していた。お粥自体に変化はないが、器が綺麗だったのを思い出した。
「これがあなた様です」
 最初は何を言っているのか分からず、
「どういうことだ?」
 と訊ねたが、結局教えてくれなかった。次に聞いてみようと思っていたのに、その次がなくなってしまった。
 だが、今なら分かる気がする。
「あなたは、中身よりも表から見える器に執着している」
 と言いたかったのだ。確かに殿下に呼び出されるようになって、諸大名や奉行たちから一目置かれる立場になっていた。しかし、本当に実力が伴っているのかということに対して一番疑念を感じていたのは他ならぬ自分自身であった。それを脇で見ていてお香は感じたのだろう。
――まるで母親のようだな――
 よき理解者であるお香を妻に迎えたいと思っていたが、どこか一歩踏み出せないところがあった。それは自分の中だけに収めて、誰にも話をしていなかったが、態度が正直だと言われる佐久間なので、気付いている人はいるかも知れない。
 お香は実に清楚な女性だ。自分からは何も望まない。だが、佐久間が気付かないことをさりげなく言葉にしてくれる。あるいは、器の一件のように、態度で示してくれる。
 佐久間もそんなお香の態度には敏感だった。何が言いたいか、手に取るように分かったのだ。それだけに、
――妻にしてしまっていいのだろうか――
 と感じるのだ。
 今くらいの距離が一番いいのかも知れない。遠くもなく、近づきすぎるわけでもない。匂いを感じることもできるし、全体も見渡せるというわけだ。それが佐久間のお香に対する考えだった。
 そんなお香が死んだという知らせではある。本当は飛んで行きたい。しかし、参内を途中ですっぽかすわけにも行かず、城への道のりがさらに重たくなってくるのを感じていた。
――殿下の前とはいえ、今日はまともに誰の顔を見ることもできないだろうな――
 佐久間は感じた。
 重い足取りで城に入り参内すると、大広間には小大名の姿はなく、殿下と小姓数人であった。
「四郎、近こうに寄れ」
 殿下が手招きをする。
 黄色を基調に艶やかな衣装は、いつもの殿下であった。左肘の肘置きに体重を掛け、それだけで威厳を感じさせる雰囲気である。
「はっ」
 恐縮して殿下の前に出る。普段と同じくらいの距離まで寄ったが、
「そこでは話ができぬ、もっと近くじゃ」
 膝を畳にこすり付けるように、前に進んだ。普段なら畳との間の摩擦で痛いものだが、その時は痛みを感じない。
――おかしいな――
 と感じながら、殿下の近くまで来ると、殿下に耳打ちされた。
「お香を嫁にもらえ」
 耳打ちして話すような内容であろうか。しかもそれを聞いた瞬間、身体が宙に浮いてしまうように思えた。意識が次第に遠のいていく。
 そこから先は夢から覚めていく感覚になっていた。しかし、覚めてきて、精神が戻るはずの身体がどこにもない。
――殿下の命令で、俺はお香と結婚したんだ――
 そしてその子孫が佐久間四郎、つまり今の私である。
 しかし、今結婚する前のお香が死んでしまった。本当であれば、殿下の思し召しによって、一緒になるはずだった。それが叶わない。
 歴史の悪戯を垣間見てしまった。見てはいけないものを見てしまったのだ。歴史はそんな佐久間にバツを与えたに違いない。
 しかし、見たいと佐久間は望んだわけではない。
――なぜ、俺だけ――
 と考えると、今度は別の考えが浮かんできた。
――ひょっとすると、俺だけではなく、すべての人に――
 本能的な逃げの考えであったが、あながち間違ってはいないかも知れない。一人が狂うと皆狂ってしまうのも道理である。
――俺はこの世から消えていく。だが、すべての世界もこのままでは済まない――
 走馬灯が目の前を駆け巡る。
 帰ってくる自分の時代は一体いつの時代なんだろう? だが、きっとそこにはお香が待ってくれているに違いない。

                (  完  )




作品名:短編集123(過去作品) 作家名:森本晃次