強制離婚
私は、おばあちゃんの気持ちがわかった気がする。だって、こんなにセカンドキスを求めたくなるものなんだから。
◆◆◆
大きな鞄を持って登下校する生徒は少ない。昔は教科書っていう本人用の科目参考書があったみたいだけど、今はパンフレットみたいなレポートを毎回授業の初めに配られて読み合わせる。そのレポートからしか試験の問題は出ないから、毎日貰うその10枚足らずの紙を自宅に持って帰ればいいだけ。
私の住む公営団地。古い団地はどんどん壊されて、大家族用の4LDKが主流の住居。同じ団地には2番目の母、『母2号』が住んでいる。日課のように外で『妹4号』と砂遊びをする母2号。無言で通り過ぎたい気分だけど、そうもいかない。
「あ、まりあちゃん! おかえりなさい」
「ただいま……」
大抵は声を掛けてくれるから返事するだけで楽だけど、母2号も含めて、どうして大人はあっさりしてるのかな。旦那様が変わるとそんなに新鮮な気分でいられるのかな。今のママ『母3号』もそうだけど、今のパパ『父4号』はただの通過点だったの? でも、私がそんな事を思うのも自分に疑問がある。私は父4号の時点で、『本当の母』を選ばなかったから。
3年ごとに子供には突然大きな選択をさせられる。
「まりあちゃん、パパとママ、どっちがいい?」
それを生まれてから4回尋ねられた事がある。流石に記憶もない1歳の私には答えられなかっただろうけど。子供は母親に依存しやすいらしい。母親に愛されない子供が相次いで心の病気に掛かった事への解決法として、子供がどちらの親か決められない時は、母親と決まっている。それは母親の経済力よりも、母親が再び将来に結婚する可能性や意思がある場合に有効らしい。この制度ならではの有効性で、争いも少ない。二度、本当の母を指さして選んだ事がある。その時どうして本当の母は、悲しい顔をしたのだろう。4歳の私、7歳の私はそう思った。だから10歳の私は父4号を選んだ。その時、どうして本当の母は、あれだけ幸せそうな笑顔が出せたのだろう。
「ただいま」
団地の私が今のところ住む玄関を開けると、『妹5号』と『弟1号』が玄関で座り込んでいる。妹5号は『姉3号』からもらったぬいぐるみを抱きながら見つめる先に、弟1号は『兄4号』からもらったミニカーでフローリングの板の間をレース場に見立てて遊んでいる。私がだいたい無口な性格だからか、弟1号と妹5号は猫のようにしばらく見つめるだけで、ただいまの反応はいつも少ない。今の時間なら部屋を占領できる気分ですぐに部屋へ入る私。右手の壁側にある二段ベッド。左手の壁側にある私のベッド。伝統で受け継がれているセーラー服を着替える事なく背中からベッドに沈ませる私。独りになれる時間が貴重だ。考えたいことがあったから。
私に対しての雑音が無い中、考える事は、有華との2回のキス。2回目の唇が離れた時、私は有華とのそれに対して言葉を交わす事も出来ずに、私の名前を呼ぶ有華の声にも振り向かず帰ってしまった。
私は2回目のキスは特に夢中だった。自分が男なんじゃないかって思うほど、有華の肩を両手で抱えて、欲しくて、欲しくて、有華に舌を絡めた。あの感情。おばあちゃんもおじいちゃんと感じたのかな。さっきまでの事を思い出すと、手のひらで顔を抑えてしまう私。無かった事にしたいっていう気分じゃなくて、すごく、欲しい。でも、恥ずかしい。その感情を認めている自分が、恥ずかしい。私は有華の香りと唇の感触と肩を抱いた感触が、恥ずかしい。恥ずかしいっていう言葉しか思いつかない。もっと他に例えられる言葉がありそうだけど、きっと、私は、有華を、愛おしい。
壁にコツンとする音。その音にベッドで上半身を大げさに起き上がらせる私がいる。その合図に、私はどんな顔で窓の下を眺めればいいのかわからない。有華がきた。窓の下から少しずつ頭から目元まで登場させる私。その目に映る有華は花が開いたような笑顔でイキイキとジャンプを繰り返しながら手を振る姿がある。私は目から下の表情を見せたくない。すごく嬉しそうな顔をしている自分を見られたくないから。精一杯できることは、片手を上げて有華の手振りに答えること。
いつも突然現れる有華。一眼レフカメラを首からぶら下げて、決まって散歩がてらに写真を撮る。そのいつもの事のはずなのに、私が考えたことは、どんなメイクをしようか、どんな服を着ようか、有華に見せるための彩りを考えている自分がいる。何に期待してるんだろう。いつも通りにすればいい。いつも通りに。いつも通りってどんなだっけ。部屋でウロウロしている私に弟1号がいつの間にかその様子を目で追っていた。
「着替えるから……ちょっとごめん」
セーラー服を脱ぎ始めると妹5号に向かってテクテク歩き出す弟1号。私は開いたままの引き戸を閉める事なく、素早くいつもの服装を思い出しながら着替える。そう、いつものスウェットとパーカー。有華がカメラをぶら下げている時はいつも同じ。いつもと同じスタイルでいいのに、何を着ようかと悩んだ私は相当頭が湧いている。
耳より高い位置で結ぶツインテールがよく似合う有華に対してテンパっている気持ちを抑えるためにもおさげ髪にする私。団地の階段を下りながら、どんな顔を見せようかとうつむきたくなる。階段の一段一段を踏みしめて、気を落ち着かせようと深呼吸を繰り返す私は自分の白いスニーカーばかりを見ている。そしてまだ下りきらない階段の途中の踊り場で白いスニーカーのすぐ先に視界に入ったピンクのスニーカー。顔を上げると有華の笑顔があった。
「もぅ、遅いよまりあ!」
たぶん、私は真顔になっていたと思う。風が吹き抜けた踊り場で香ってくる有華の香り。まだリップを付けたばかりでテカる唇に、私の胸の奥で大きく高鳴る鼓動を感じる。これは今日、結婚の申し込みをして、フラレた時に固まった茂と同じ気分なのではないかと。怖い。怖い。有華が私に次どんな言葉を投げてくるのか、怖い。どうして怖いんだろう。告白したわけでもないのに、フラレるわけでもないのに、私は怖い。有華を失う事が。そんな気持ちが脳裏を駆け巡る。酸素が薄いのか、私が最後に呼吸したのはいつなのか、吐く息の匂いを嗅がれたくない気分。鼻を広げながら息を吸う姿を見られたくない。口を開けて息をしようと思ったら、また有華の口で自分の口をふさぎたくなる。視界の外側から白いフレームで私の視野を奪っていく。どうしよう。
気が遠くなる私を支えてきたのは有華だった。肩の上と脇の下から背中で両手を混じらわせた。有華の唇の熱が私の耳を赤くする。
「まりあ、私を支えて……まりあを見てたら倒れそうになっちゃった」