吸血鬼の椅子
糸を舐りながら刺繍糸だなと思った。ふわふわした綿はフレンチノット、萼はサテンステッチで、チェーンを密につないで木の枝のごつごつした質感を表現しようとしているがまだその技術は未熟だ。枝を辿って舌で舐ると、チェーンから生える木の枝のステッチがいつの間にかフェザーステッチに変わって、桧の丸くて小な木の実が唇の上に転がった。四角い布を縁取るように刺繍がそんな調子でいつまでも続く。口の端の片方で布地を銜えつつ、もう片方の端から溜まった布地を吐き出す。図案の方は筋が良いと思った。一番多いのは薔薇の模様だ。大輪の薔薇から蔓薔薇や、サテンリボンの薔薇や秋薔薇や茨が舌先に次々に現れた。やがて一輪咲の大輪の薔薇が枝を増やして同じように咲き、またさらに伸びて花を咲かせていた。同じ株から別れた花であるが当然一つ一つの花は違う。花弁のそりや、斑の入り方、虫の食い方、葉の具合まで一つとして同じ薔薇がないのは現実でも当然のことだし、それを踏まえて描かれる糸と針の刺繍においても同じことが言える。花の色は黄色みを帯びた赤、と思う暗闇をよそに、部屋の中では茶の支度が着実にすすめられていた。
「先生、お召し上がりになりますか」
あとにしましょう、と言いながら立ち上がった家具職人の足下にはそいだ肉が溜まっているのか、軟膏の臭いに混じって鉄のさびた様な臭いが深い水の中にまで漂ってくる。こちらはお持ち帰りになられるのですかと執事が聞くのが聞こえた。
「持ち帰って焼きます。放っておいても増えることはないのですが、物が物で、腐る一方ですので。生きがいいと増えますが、今そぎ落としたのはもう駄目になっている部分ですので増えません。……早い話がこれは腐敗した肉です。まだ生きているのはこれだけ」
随分痩せたものですな、と主人の声が言った。
「吸血鬼はあまり体型が変わらないと聞きますが」
「動きやすい方がいいのは誰だって同じですよ。重すぎるのも、大変でしょう。あとは個々人の自己イメージになりますが」
吸血鬼は概念で増殖する細胞を統制しているものなので、と椅子の背に冷たく湿った指が触れる。
「そうでなければ際限なく肥大したり、反対に腐敗してしまう。そうなりかけているのがこの椅子です。もちろん十字架やにんにく、銀の弾丸、水、塩なども害になりますが、世間一般にいうことは大げさが過ぎるのです。多少害があったって、まるで対処ができないと言うわけでもない。鏡には映りますし、流れる水も平気です。聖水は精製に極めて厳重な手続きを取らなければ効果がありませんし、手袋などで防御すればよい。銀製の武器などに至っては普通の人間だって向けられたらたまったものではないでしょう」
まあ効くのですが、と家具職人の言葉の尻がすぼんだ。だから心臓や頭を納める桶の中にはたっぷり聖水が張られている。
「この椅子も、このままであればもう駄目でしょう。本来であれば古くなった皮膚は自然に剥離しますが、それすら働いていないらしい。先程おっしゃっていた通り、吸血鬼の体型はあまり変わることがないのです。太ったのならば元の体型に戻るまで痩せ、痩せたのならば太る。心臓の桶を使うとこの働きは加速しますが、大本の形まで変わることはない。ところがどうです、椅子の肉は痩せたままです。自他の境界が曖昧になっているか──あるいは自身が吸血鬼の椅子だということを忘れ果てて、ただの椅子か肉塊に成り下がっているのか」
ですから荒療治になります、と椅子に触れる手が離れる。元のように桶を持って立つ執事に、もう一人の方はまだお戻りになりませんかと家具職人が聞くのが聞こえた。
「ええ。まだ、何も」
「では我々三人で。先程のメイドには、今からしばらくの間誰も部屋に入れないよう伝えてくれませんか」
家具職人は肉をそぐのに使っていたナイフを鞄に戻したようだった。代わりに取り出した袋に椅子からそぎ落とした塊を詰め込みながら、途中から人を入れて気が散るといけませんから、と言った。
「旦那様と執事殿に引き続きお手伝い頂くことにしましょう。失礼ですが、どちらの方が力が強いですか」
「私が」
「では、旦那様にはそちら側の肘掛けを押さえておいて欲しいのですが」
昔は自らの手で所有する畑を全て耕しましたからなと言う声と共に乾いた手が肘掛けをがっちりと押さえた。では執事殿はその桶を、と再び職人からの指示を受け手桶を取った執事の腕の先で暗闇が揺れる。
「開けて中から引きずり出してください」
中に入っている水はただの聖水です、と言って肘掛けを押さえながら家具職人が言う。
「ご心配なようでしたら私の手袋をお貸ししましょう。あなたが吸血鬼である可能性が少しでもあるとか」
「私がもし吸血鬼だったら、こんな皺だらけの顔をお客様にお見せしていないはずですよ」
人は見かけによらないものですと言う家具職人の声をよそに掛け金を外した腕が水の中に飛び込む音が聞こえた。顔の上の布をどけて、唇の端からはみ出していたハンカチを返せとでも言いたげに引っ張る。
「噛まれないよう注意してください。その桶の中の頭は呆けているようなので多分大丈夫でしょうが、必ず耳か頭髪を掴んで目がこちら側を向くように」
家具職人の言葉が続く間もなおハンカチが引かれるので、口から吐き出すと皺だらけの手が水中でそれを受け取る。そのまま掌の内側にハンカチを隠すと耳の後ろに手が回った。引き上げられる。濡れそぼった薔薇の刺繍からびちゃびちゃと水が落ちる音が聞こえる。久々に目にする陽光は聖水以上に目に染みた。
視界は遮らないように、と家具職人の声が飛ぶ。
「失礼、拭おうと思ったもので」
前がよく見えた方がよいでしょう、と家具職人の言葉を受け流しながら皺だらけの指が日差しを遮る。絞られたハンカチが目の前を覆った。まぶしさが幾分か和らげれて、ようやく光に目が慣れてきた。家具職人のいらだちが舌打ちになる前に、執事の手が素早く額や目の周りを拭うと刺繍のカーテンが取りのけられる。
一人がけの椅子がそこにある。
若い痩せぎすの男と、老境に足を踏み入れたばかりの大男が左右からその肘掛けを押さえ込んでいる。手が小さく震えているのは──視覚と感覚の左右が逆だ──大男の方なのは少し意外に思った。考えてみれば家具職人は日頃からの保守点検のために桶を覗いているから見慣れた顔が外に出ているだけだが、一方の椅子の主人にしてみれば驚くのも致し方あるまい。椅子の修理に頭桶が持ち出されるのはこれが初めてのはずだ。生首を掴んだ執事の手が震えないのはさすがの一言に尽きた。
椅子がある。