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吸血鬼の椅子

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 その丘がなだらかな平野の中にあることは、平野を吹き抜ける風があまり速度を変えずに山肌を伝って肌にあたることからも知れた。倒壊を免れたとはいえ、屋敷がまるで無傷だったわけではない。柱がゆがんではがれ落ちた壁の隙間からは寒風がいくらでも吹き込んだ。肌は風に乗って運ばれてくる音を拾うことはなくても、大気を伝う振動や水気や埃の来し方を鋭敏に悟った。そのおかげでそこが湖水からほど近い場所であること、湖を越えた急峰から滑り落ちた風が湖面で弾んで塩気の少ない水分をたっぷり身に擁しながら丘を登って、時たま雨をもたらしていることが知れた。なだらかな丘の具合はヴェキポーレととてもよく似ていたものの、丘を取り巻く険しい山岳が少ない分、その何倍も広い草原が辺りに広がっていた。羊や山羊の数はぐっと少なく、代わりに豊かな穀倉地帯が広がっている。季節になるとイネ科の花粉が大気中につぶつぶと混ざるのが判るほどだ。
「長らく屋外にあったというお話は伺っておりましたが、想定していたより状態が良かったのはそのためですか」
 家具は自力で動けませんからねと家具職人が言った。
「日差しを嫌うのも、極度な乾燥を避けるのもそのためです。特に日焼けは軽度のやけどと同じですから、後々まで補修ができない跡を残すこともあります。この椅子が見つかったと聞いたとき、驚くのと同時に、どれほど日焼けの跡が悲惨な状態になっているのかで気が気でありませんでした。結局杞憂に終わりましたが」
 粘つきを拭いたぼろ布を、作業用のズボンの横につり終えたらしい家具職人が椅子の下に作業用のビニールを敷いても構いませんかと尋ねる。
「戦後しばらくはまだ良かったんです。その頃はまだ、各地のカファー卿の屋敷も保存されていたのでしょう。土地自体の価値もさることながら、建物の中には好事家にとっては垂涎の吸血鬼の家具があるのですから、管理もおろそかにはしないはずです。けれども再評価の時期にカファー卿は戦犯の烙印を押され、係累もなかった方でしたので戦争に加担したものはこぞって彼に罪業を押しつけました。負い目も感じない人々の非難はなおのこと厳しかった。各地の彼の屋敷は壁を壊され、金目のものは強奪され、彼の後にその家を所有していた権利者や管理者は見て見ぬふりで──一体どれほどの家具が失われたことでしょう。修理のために私の手元で保管していた彼等の心臓は今でも拍動を続けていますが、その頭蓋は往時の姿を失って溶けきってしまったものも少なくありません。探し出して手入れを行おうにも、どこにあるのかすら判らない家具の方が多い」
 あるいは中の銀の骨格に目を奪われて溶かされてしまったのでしょう、と肉が削り落とされることによって露わになった骨格に冷たい指が触れる。
「不純物があるとはいえ、それなりに良いものを使って作りますからね。多少気味の悪いものがついていたところで、溶かしてしまえばまず判らない」
 肉をすっかりそぎ落とされた骨は砕かれて銀の筒の中に納められ、そのまま家具の一部となる。誰の、何の骨だろう。小さな疑問が頭をもたげた。その作業に家具職人は銀のハンマーと鑿を使った。大きな骨は鑿の先で割ってから、程よい大きさ――大体直径一センチ以下になるまで丁寧に砕いてゆく。はじめは中空の椅子の骨格にそのかけらを入れて簡易的な蓋をし、バンドや鋲で皮を貼り付けてから蓋をはがし、パイプの中に銀を流し込む。座面の厚い肉をとめる鋲もバンドも銀製だった。心臓には銀の針金を通す。死ねない程度に、と家具職人の声が耳によみがえる。
「カファー卿が亡くなられたとき、私が探しに行くことができればよかったのですが。卿の死亡は伏せられていましたから手遅れだったんです。家具が見つからないまま年月が過ぎました。工房に逃げ帰って来た椅子もありましたが、まあひどいものでしたよ。土に混じって日に焼けて、形も何だか判らないぶよぶよしたものになり果ててしまって。再び椅子にすることすら叶わないような有様でしたので、処分しなければなりませんでした。手入れを怠ると椅子は椅子の形を失います。──ああ、こりゃあだめだな。クリームでは追いつかない」
 椅子をひっくり返していた家具職人がガスが溜まって膨張していると呟いた。そうして床の敷物をたたむと部屋の隅に片付ける。
「一度ごっそり削ってからにしましょう」
 大判のビニールシートを椅子の下に広げながら家具職人が言った。
「それから見せます。順番を間違えてはいけない。……執事殿、お待たせして申し訳ありませんが、あなたに仕事を割り振るまでもうしばらくかかりそうです」
「いいえ、お気になさらず」
 控えめに扉を叩く音が聞こえて、茶が入ったようですと執事が言った。廊下に茶と菓子を乗せたカートを受け取りに、桶を置いて部屋を出ていく執事の後を耳で追う。
 暗闇の中に肌をなでるものがあった。家具職人が主人の許可を得て椅子の脚をえぐっては心臓の桶を近付ける作業に気を取られていてしばらく気付かなかったが、額の上に髪とは違う、一塊の、重さも無いようなものが覆っているのに気がついた。暗い中では誰かの髪に枯れ葉がひっかかっていたとしても、当人はおろか、周囲の人間もそれに気づくことはできない。もっとも誰も見ていないのなら、明るかろうが暗かろうが自分で気付くしかないのは同じことだ。平らかなそれの所々に、平面の範疇を超えない程度の凹凸がある。その凹凸も縒り合された糸からできていて、一筋一筋は髪の毛に似ていたがどちらが先とも元とも判らない。毛先がどこかに吸い込まれていた。ゆらりと平面が鼻先をかすめて移動する。
 あいにく手で払いのけることができないので、一瞬の逡巡ののち、口を大きく開けると舌を伸ばした。わずかに、それによってあおられた平面が舌先三寸──二寸、──一寸と距離を縮め、やがて舌を覆うようにゆっくり落下をはじめる。取り落とさないように細心の注意を払いつつ、舌で巻き取ると唇に例の凹凸が触れた。平面の端を犬歯で噛みながら、折りたたまれた平面の上を舌と唇で這うように走査する。灯りの下で眺めたら、きっと葉を食う芋虫のように見えるはずだろう。布地を鋭くなった牙で引き裂かないよう注意しながら手繰り寄せつつ、これは布だなと思った。織物というにはきめ細やかで、紙というには整然としている。凹凸の糸は局所的で地の糸よりも太かった。色までは判らない。
 ──綿花の。草花の模様の。
作品名:吸血鬼の椅子 作家名:坂鴨禾火