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吸血鬼の椅子

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 ほっそりした手が椅子に触れて肉の張り具合を確かめはじめた。メイドや使用人の指とは違う。家具職人の指はいつでも血の通わないのではないかと思うほどに冷たく湿り気を帯びている。指のみならず掌も同様だったが、こちらは指先に比べるとまだ暖かみがあった。ハンマーやナイフを振るう腕なら厚くがさついた掌がついそうな気もするが、家具職人の手は家具同様よく使われ、よく手入れがされるものらしい。座面に手をかけながらその隣にしゃがみ込んだ主人が、この辺りが、と言いながらと患部の周りをぐるりとなぞる。こちらは節くれだった乾いた指だ。
「蔦でも入り込んだ様な模様が広がっていて、拭かせてもいっこうに直らない。きっと皮の中で起こっていることなのでしょう」
「ああ、これはヘモグロビンが染み付いているんです。厄介ですね」
 円を描いた中に指を滑らせながらいくつも枝を描いていた手が、つと脚の方へ下ってこちらはむくみが顕著です、と皮をさすった。
「脚のバンド周りが膨らんで脹相が出ています。蛆蠅の類が入り込んでいることもありますが、幸い、目につく傷はこの間修理したのでその心配はないでしょう。ただ、いつ腐敗に至るかは判りません。抗生物質を塗るべきか。……あと気になるのは座面の一番かける辺りの周縁にある、ぼかしたような色の変化でしょうかね。こするより揉む方が良いです。こうして、指先で圧をかける。裏面も大分むくんで変色していますね。や、さすがに薔薇は無事か」
 四つそろえられた家具職人の指先が、刷毛の様に薔薇の模様の上をなぞった。椅子からは遠い、入口近くで控えていたはずの老人が何も言わずに桶を抱え直す。そうして同じ部屋の中にいる人間や、廊下で控えているはずのメイドに聞き取られない程度にため息を漏らした。暗闇が揺れる。
 闇の色は前に比べて薄明るい。誰か扉を開けたのか、冷たい風が水面に吹き付けてさざ波を起こす。扉が開いていることに家具職人もこの家の主人もまだ気付いていないようだった。執事が細く開いた扉越しに視線を投げかける。白頭の、くたびれたような顔が白いシャツの上に乗っていた。眼球を動かせる限り動かし──そうだ、それは眼球というのだ──光に網膜が焼けるのにも構わずそれを眺め上げる。目は二つ、耳も二つ、声の通りやせこけた老人で、馬子にも衣装という言葉が脳裏に踊った。どこにでもいそうな顔がしかつめらしい執事服の上に据えられている。扉の向こうには掛け金があるはずだ。直接は見ていないが、工房で聞いた家具職人の話によればそうなっているはずだ。
 遠くで椅子を置く場所を変えた方が良いですかと主人が言っているのが聞こえた。
「日があたりすぎるのは良くない、と聞いたことがありますが」
「よほど弱っていない限りは平気ですよ。むしろこの部屋から動かさない方が良い。光線も窓の高さも丁度良いので」
「それは良かった」
 できるだけ元と同じような屋敷にするように随分心を砕いたものですから、と言った屋敷の主人の目が椅子から離れて部屋の方に向いた気配を察して、音もなく扉が閉められ、薄暗がりがまた元の暗がりに戻る。
「見渡す限りの領内に、ぽつんと一箇所だけ手つかずのヒースが生い茂る低い丘があるのは知っていたんです。そこが他人の土地であるというところまでは誰もが知っていたのですが、それが誰のものかは誰も知らない」
 そう言って椅子の主人は執事を見たようだった。声に応えて執事が一礼する気配だけが伝わってくる。暗闇が揺れる。
「あすこに立っている執事は父の代からの人間ですが、彼もです。この屋敷はその丘にあった屋敷を模したもので、この椅子はその屋敷のものでした。いやはや、所有者を捜すのに大分手間取りました。どうやらカファー卿がまだ名を馳せる前に買い入れた領地で、おそらくまだカファーとも名乗っておらず──ええ、アルベルト・カファーというのも通名でしたから」
「あの方はいろいろな名前をお持ちでしたからね」
 よくご一緒させて頂きました、と検分の手を止めずに家具職人が答えた。
「あちこちに飛び地のように所領をお持ちで、随分お屋敷の家具を作らせて頂いたものです。別の人間からの依頼だと思って仕事に向かうと、さっき別れたはずのカファー卿がいて驚かされることも度々でした。あちらのお屋敷は南方風、こちらのお屋敷は西洋風、良い皮があればそれにあわせて屋敷をお作りになられるくらいで、その邸宅もそうしたお屋敷の一つだったのでしょう。あまりに数が多すぎて覚え切れていないのと、あまりに年月が経つのが早すぎて──私の感覚がゆっくり過ぎるのでしょうが、何せ世の中というのはめまぐるしく変わりすぎるきらいがあるから」
「あなた方にとってはほんの一瞬のことなのでしょうな」
 水面を走る波がおさまった頃、再び扉が開けられて老執事の目が覗いた。
「今となっては笑い話だが、当時はそこだけは所領ではなかったから。入るときはこっそり入って、こっそり出なければならない。親父に知れたら大目玉でした。もしかしたら親父は、あの呪われた戦争狂の土地と知っていて手が出せなかったのかも知れません。……元は庭に植えられていた薔薇の茂みが年月を経て繁りに繁り、緑の枝をふりほどきながら登るうちに、日は沈み、夜になり、初めて屋敷跡にたどり着いたのは月が昇る頃でした」
 草叢をかき分けて丘を登り切ったときのことは忘れもしませんと言う声が、扉が開かれたことによりいっそう明瞭に聞こえた。
「はじめ、それは奇怪な形の樹木に見えたもんです。異様に肌の白い木が、同じくらい太い根を繁らせて諸怪を侍らせている──それは倒壊した柱と梁で、怪物は室内を飾るグロテスクだと判ったものの、そんなものが毒々しいまでに昇りはじめの満月に照らしだされて濃い影を引いている。今にも石の化け物が動き出すのではないか、と恐れおののいたものです。足下に割れたタイルが敷き詰められているのが、月光をわずかに跳ね返すのを見て、初めてここには人の住まいがかつてあったものだと心づいた」
 暖炉の薪が爆ぜる音に混じって、丁度あの柱の礎石に腰掛けまして空想を巡らせたものですと椅子の主人の声音が楽しげに弾む。
「そうして改めて眺めてみると、あすこが扉で、あすこが窓といった建物の亡霊が音もなく立ち上がる。それまではすは万鬼の集う伏魔殿か、それとも悪魔の城かと思っていたところが一気に親しみを帯びてきましてね。目立たぬ程度に草木を切り開いて、地面に散らばった化粧壁やタイルをどこの産かと一つずつ推定する作業に凝ったものです。建築年代を推測し、流行様式から丁度の具合を想像し、礎石の具合から間取りを想像するのは案外楽しい。──持ってくることができなかった柱や装飾は今でも元の場所に残してあります。私がはじめに見た柱も、すっかり蔦に覆われてしまって持ってくることを諦めたものの一つでした。あれが廃屋の中に入り始めるともうその家の倒壊は近い」
 この椅子を見つけたときには心臓が止まるかと思いましたよと太い声が言った。
「建物の中心部分にあたる一角は、蔦の魔の手が及ばなかったと見えて崩壊を免れていました。皮肉にも家を崩した枝が壁や柱の残骸を支えて、日差しの強さや雨風からこの椅子を守っていたのです」
作品名:吸血鬼の椅子 作家名:坂鴨禾火