吸血鬼の椅子
「その他にも、細々としたご指示がいくつか。柄つきの皮というのはそこまで珍しくはないのですが、家具にするかといえばまた別ですからね。極東のものは目立つよう背当てにいれることが多いものの、よくある一箇所だけ入った小さな柄ほど扱いに困る。大抵は柄のところだけ切り取って使わずに済ますのですが、品の良い柄だったせいかカファー卿も大変気に入られまして、せっかく手に入れた皮ですし、是非使うようにと。あなたの故郷の柄でしたとは」
「ええ、薔薇の紋には格別の思い入れがあるのです」
ハンカチ一枚恵んで頂いたことがあったもので、と再び老人の口調に東方訛が戻ってきていた。
「家ごとに得意とする紋があるという話をしましたが、当然町の外の行商の子供にはそれがないので随分からかわれたものです。だから自分だけ、何の模様もないまっさらなハンカチを使うのが嫌で嫌で仕方なかった。そもそもハンカチ一枚買うのにも苦労するほど貧乏でしたが。……それを見かねたお嬢さんから刺繍の入ったハンカチを頂いたんです。窓辺に薔薇を飾った刺繍屋の娘で、練習用に作ったものだから、と言っていましたが、恥ずかしいのも忘れて天にも昇る心地でした。他の行商の管轄の家の娘だったので話したこともそれきりでしたが、いつもその薔薇の窓を仰いでいましたよ。子供心にまた会うことができますように、と寝る前にお祈りしたものです」
そのハンカチも国を脱出するときのどさくさに置いてきてしまいました、と執事が話すうちに車は屋敷に着いた様だった。
椅子の上の人物は深々と腰掛けたまま暖炉の火にあたっていたが、到着の報を受けたのかおもむろに立ち上がった。暗闇が揺れる。かすかに耳元で鳴っているのは家具職人の工具だ。家具職人が以前語ったところによると、修理に使うのはナイフとガーゼ、床に敷くためのビニールシート、ゴミ袋、テープ、銀の針と二種類の縫い糸、これに加えて椅子に使うバンドと鋲、鑿とハンマー、それからクリーム数種と、椅子ごとに存在する心臓の桶がいつもの道具として持ち出される。桶はいわば椅子修理のための魔法の道具だ。そもそも椅子そのものが魔法の賜物で、椅子にかけると白や褐色の椅子の皮越しにほんのり熱が伝わってくる仕様だ。多少の傷なら年月の経過と共に癒える。ただし大きな傷や傷をすぐに治したいときは家具職人を招聘する必要がある。家具職人は椅子ごとにある様々な桶を持っていて、その桶を使って椅子の肉を太らせ、または傷を治した。
先程まで椅子が座られていた、肉厚のクッションが貼られた座面にはおそらく鬱血が見られるはずだ。そのクッションを除くと、椅子は銀の骨格と、同じく銀の糸や針金でできた海綿状の組織でできている。銀の骨格の中には粉砕された骨と骨髄が入れられており、そのおかげでより強固に椅子の皮が──総革なのだ──骨格に貼り付けられて、
「家具職人の先生がお見えになりました」
その上から無数の鋲で打たれて部位によってはバンドで押さえられている。皮革同士はかつて糸で縫われていたが、皮が癒着すると消える特殊の糸で、心臓の桶の銀の糸や座面の肉の中にある海綿状組織とは違う。それから、そう、あの薔薇の模様──老執事がヴェキポーレの柄であるといった、あの薔薇の模様のことも知っていた。真紅の、というよりはややオレンジが優った花の色は出入りの染料屋から買い入れたものだ。織物と刺繍が特産のヴェキポーレは針屋も染物屋もそれを商う行商にも溢れた街で、刺青を入れる者も実は多い。図案を描き、針を刺して色を染みこませる要領は案外刺繍のそれと似ている。娘達の中には腕利きの素人彫り師もいて、刺青を入れるときはそういう娘に頼むか、あるいは自分で針と染料を買いそろえて肌着の下に図案を仕込むのだ。老人の言ったハンカチの求愛はかなり上品な方で、下世話な話となるとハンカチではなく素肌に縫った花を口実に情事にもつれ込む。だから刺青は深く秘された。
廊下に人の気配はなかった。執事がぬかりなく先に人払いをしているのだろう。家具職人が来たと周囲に知られれば、椅子の部屋に予期していない人間を招き入れてしまうことになるからだ。招かれなければ入ることはない吸血鬼と違って、人間様は墓の中にも隠し部屋にも、ハンカチの奥やドロワーズにまで勝手に潜り込んでくるものだから用心は重ねた方が良い。途中、擦れ違った男性の使用人に執事が二三言葉をかけていたが(おそらく部屋に入ることのできる使用人の一人だったのだろう)よく聞き取ることができなかった。廊下を辿る足音が増えることもない。
執事と職人の二人連れが長く入り組んだ廊下を辿っている最中、椅子の部屋では相変わらず暖炉の火が燃えていた。椅子に座るものはもはやなかった。椅子の主がそこにいるのに椅子に座らないのであれば、一体誰が座るというのだろう。熱源がひときわ大きく揺れる。火を掻いているのはおそらくメイドのナタリーだろう。部屋に出入りするメイドは二人だけだったが、ここのところ椅子を傷つけた方のメイド、カスリーンの方は椅子の手入れに現れなかった。おそらく屋敷から逃げ出したのか、追放されたかしたのだろう。
執事と家具職人が椅子の部屋に到着した。扉を開けたナタリーがこちらへ、と静かな声で家具職人を部屋の中に招き入れる。カーペット踏む足音が二人分して、机の上に桶が置かれた。
「つい先日もお運び頂いたというのに」
太い声が響いた。枯れ木のように痩せた執事の声に比べると、大柄の脂の乗った四、五十ほどの年の人物であるのが見なくても判る。声の裏には言いようのない緊張が隠されていて、その緊張は椅子を失ってしまうかもしれないという心配から来ているのだろうということが容易に伺えた。
「早速修理に取りかかりたいと思うのですが」
家具のメンテナンスも仕事の一つですので、と軽く受け流した家具職人はちらりと執事とメイドの方を見たらしかった。
「力仕事でしてね。――どなたかにお手伝い頂きたいのですが」
「エドモンドが終わり次第こちらに合流するとは言っていましたが」
「人手が足りないことの責は私にあるだろう。元からこの部屋へ立ち入ることを許された人間が少ないから。先生、何をすればよろしいですかな。私でよければ手伝いますよ」
先ほどの太い声が混じる。この声がやはりこの屋敷の主人であるらしい。とはいえ旦那様のお手を煩わせるわけにも、と珍しく言葉を濁した家具職人の声が消えて行く先を眺めた。今まで顔も見たことがなかったし、今も見えない。ただぼんやりとした暗闇が鼻先に広がるばかりだ。
では症状をお伺いしましょうか、と家具職人が椅子の足首にきつく巻かれたバンドの具合を確かめながら言った。
「一番椅子におかけになる方のはずですから。執事殿はこの桶をお願いします。必要になったら指示しますので」
「かしこまりました。では、ナタリーはお茶の支度を。それが終ったら、そのまま廊下に控えていてください。エドモンドが戻ったらすぐに連絡を」