吸血鬼の椅子
「あの頃、あの一帯はどこも似たような顔をしていて大して気にしなかったのです。──薄暗くて湿っぽく、どこもかしこも扉を閉ざしていました。埃の厚く積もった窓からはこっそりとこちらを眺める目がいくつか。ほとんどの商店はシャッターを下ろして、ごく稀にあいている店で執拗な誰何の後に買えるものは煙草と水と干からびたパンだけ」
「ええ、最後はどこもそんな感じでした。町には失業者が溢れて、目立つ色のものは塗りつぶされて、上から落書きのようなプロパガンダとか、よく判らない印がペンキで殴り書きされたのを土で隠すのでそこらじゅうで土埃が舞っていました。町の外にあった私の家にはあまり関係がないことでしたが」
それでも不景気のあおりはもろに受けましてね、と老人の声が言った。思い描いていた町並みの窓の外で育てられていたゼラニウムの鉢植えが一瞬にして枯れる。
「ヴェキポーレを見限って少しでも職にありつけそうな首都に向かったはいいものの、やはり職にあぶれて国外へ出稼ぎです。渡航費用の借金の分を少しでも取り返そうと躍起になって働いているところで、振り返ってみれば、よりにもよって私の故郷が火薬庫になって盛大に吹っ飛んでいました。一段落したところで帰ろうとも思ったのですが、その頃にはもう大量の入植者が国外からごっそり入ってきていて、すっかり様変わりしてしまったと聞いて帰る気をなくしたんです。もう何の未練もありません」
執事の東方訛は再び息を潜めて、きっと皺だらけのその肌のひだの奥のもっと深いところへと潜り込んでしまったらしかった。爾来旦那様の許で働いています、と代わりに使用人の長らしい厳格さが声の張りに戻ってくる。
「あの部屋のことを知る人間はけして多くありません。先程人手を借りたいとのお話でしたが、数人となるとあの部屋に出入りする使用人の手が足りませんから旦那様にお伺いを立てませんと」
「いえ、難しいなら構わないのです」
手が足りないなら足りないでやりようがありますから、と言って家具職人が膝の上に肘をついたらしかった。
「吸血鬼の椅子は概して秘密の場所に置かれがちなものです。何せ希少で、そして人を惑わせる椅子だ。置く場所は慎重に検討を重ねる必要があります。日の燦々と照るところではあっという間に塵になってしまいますし、また無闇に人目につくところであってもいけない。一番多いのは地下ですな。出入り口を隠してしまえばなんとでもなる。お宅様のように地上に置く場合には、椅子の場所から設計をはじめることも多いんです。椅子を置くためだけに部屋が設計されて、廊下や秘密の扉が配され、その外側に何でもない風を装って表向きの広間や居室が設けられる」
「ええ、今のお屋敷の図面を拝見したとき、全く妙な作りをしていると思ったものです」
今ではすっかり慣れましたが言った執事が窓の外に目をやったのか、車の心臓の低く唸る音が暗闇を占拠した。
「家具を持つ場合に、何か気をつけた方が良いことなどありますか」
「そうですね。まず、やはり置き場所の問題。次にメンテナンスです」
日々の手入れについてはあなた様もよくご存じでしょう、と家具職人が言った。
「夏は汗を吹かないように、冬場は暖炉の火を絶やさないように気をつけること。椅子の下にカーペットを敷く場合はこまめに洗濯し、板の間の場合は掃き清める。日々の手入れは拭掃とクリームでの保湿、それからたまに座って祈祷書を読み上げることですな」
「メイドのナタリーはコミックスを読んでげらげら笑い転げていましたが、あれは良いのでしょうか」
「別に祈祷書でないといけないといった理由はありませんよ」
もちろん害を和らげる目的であれば聖書が望ましいですが、と家具職人が答える。
「お客様の中には聖書の読み上げがお嫌いな方もいらっしゃいますので、そういった場合は香の強いオニオンクリームをおすすめしております。家具は生きているものですから、刺激が無いのが一番いけない」
確かに、刺激が無いことは一番良くないことなのかもしれない。
刺激が輪郭を形作るとまでは行かないが、ぼうっとしていると暗闇の中に思考が溶けていってしまって、際限なく思考の範囲が拡散していく。それに反比例して内容は限りなく希薄になっていった。暗闇にともす灯りのように、刺激は一つでもそれなりに効果があった。慣れれば薄れる。そうして腐敗していく。目の前の澱んだ暗闇を眺めているうちに、椅子の部屋には誰かがやって来たらしかった。暖炉の前の誰かが火の道をあけた直後、椅子の肉が銀の糸の中に深く沈み込む。
冷え切った手が肘掛けの銀の鋲に触れたはずだったが、そこは感覚の埒外だ。節くれだった太い指が鋲の上から降りて、骨組みと肌との間にびっしり打たれた鋲の肉側を丹念になぞっては時折指を擦るために椅子を離れる。肘掛けにも嫌な粘り気が現れ始めたらしい。最前家具職人や老執事が話していたクリームではないことは、ごつごつした指が触れる範囲がごく一部に留まっていることからも伺うことができる。指先はついで座面に打たれた銀の鋲に触れ、クッションの奥に差し込まれた銀のバンドに触れ、脚にはまっている方にも触れたあとで、指を拭うと今度はそっと手前側の右脚の付け根の裏の、骨組みの上から薄く皮の貼られた辺りを指の腹でなでるように触れた。普段の手入れではあまり触られることのない場所だ。時折椅子の主人や好事家──水仕事のおかげであれがちな使用人の指ではないから、きっと主人が椅子を見せるために招いた好事家の指なのだろう──が、無作法に脚の下に潜り込んだあと、おそるおそる触れる場所であるということは知っている。老人の言う薔薇の模様も多分そこにあるはずだ。
「建物を拝見した限り、そう方角が悪いわけでもない。……あの椅子のご注文は、確かカファー卿からでした」
「ああ、あの」
戦争狂が、と執事がわずかに毒づく息の中に、再び東方の響きを聞いたような気がしたが、車の唸りに紛れて職人の方は気がつかなかったらしい。
「秘密厳守が稼業でございますが、お亡くなりになって久しいので時効でしょう。なかなか難しいご注文でしてね。子孫も係累も絶えてしまって、椅子ももう世にないものと思っていましたが、まさか再び巡り会えるとは思いもしませんでした」
あなたの昔話で私も少し昔のことを思い出しましたよ、と雑談のバトンは家具職人に渡ったようだった。
「柔らかな、それでいて弾力のある皮の好みは皆様同じでございますが、あの方は格段に思い入れが違いまして。もちろん相応のお支払は頂きましたが、あちらこちら渡り歩いていた方だけあって相当の目利きでご注文もこまやかでした。皮の産地もヴェキポーレ、クルツェ、ニーザイのいずれかとご指定を頂きまして」
いずれも通好みの選択です、と言葉を付け足す。