吸血鬼の椅子
「年季の入った特別な皮だけはどうしても時間がかかるか奪い合いになりますが、あとはなんとでも。それだってつてがないわけではありません。あまり時間が気にならなければ一からお作りすることもできましょうが、それではあなたが待ちきれないでしょうし」
「いや、いいのです。私はあの椅子と朽ちていきたい」
「はは、さては用意した額面がいささか心許ないのですな」
老人の声を若い家具職人の声がせせら笑って、それともあなたが吸血鬼になりますかと言った。不意をつかれた老人がむせ返る。
しばらく咳がやみそうになかったので椅子の状態を改める。老人や家具職人が言うように、猫足の椅子はかなりくたびれているようだった。座面の皮を突き破って本来肉の厚いクッション部に内蔵されている銀の糸が椅子の表面に顔を覗かせていた。この糸は椅子の骨格からクッションがずり落ちるのを防ぐためのものだ。それが外に出ているということは、肉が痩せたと判断するのが妥当だった。車が縁石に乗り上げて暗闇がたぷんと音をたてて揺れる。その場合の修理に持ち出すのは心臓の桶のはずだ。けれども家具職人は心臓の桶では駄目だと言う。
椅子が置かれた部屋では相変わらず暖炉の火が燃え続けていたが、椅子の身を案じてなのか、今は椅子には座るものはなかった。骨組みの方に異常はない。椅子を覆う厚い皮にも大きな傷はなかったが、所々むくんだようになっていて、脚にあしらわれた銀のバンドが重そうに肌の上にはまっていた。臭いがあるのかまでは判らない。ただ、思い返してみると最近になってメイドがひときわ強く拭うようになった座面の奥の隅と、クッションにおされたピンの周りにむずがゆいようなべたつきがあるように思えた。メイドのカスリーンが皮を傷つけてしまって(犯人は今知ったばかりだ)、家具職人がその針と糸で綴ったあとも様々な指先が傷跡を気にするように同じところをなぞっていたことも思い出す。どうにも傷跡というものは気になるらしい。
ようやく枯れた喉から出る咳を押さえ込むことに成功した老執事が、私はあの椅子の脚に模様があるところが気に入っているんですよ、と控えめな声で言った。
「手前側の右脚の裏の。けして目立つところではございませんが、表に出してしまうとそこにばかり目が行ってしまうので随分工夫されたんだと思います。あの椅子は薔薇の椅子と呼ばれているそうですが、これとよく似た柄を故郷で目にしたことがあるので」
私の出身はヴェキポーレという山間の街でしてね、と老人の声が続ける。
「今はもう目にする機会もありません。なにしろ工房も職人もなくなってしまったものですから。元々が小さな街で、人口があまり多くなかったところに紛争が起こりましてな。戦争よりも内紛の方がよほど質が悪い。ひどい話が行動を共にする人間以外のところに爆弾を放り込んでおけば良いと言った塩梅でした。思想があちらかこちらかで別れたものですので、出自や土地を問わないのです。故郷には借金ばかりであまり思い入れのない私が言うのも何ですが──」
お若い方には老人の昔話など大して面白くもないでしょうから、と老人の話が立ち止まりかけたのを家具職人が促した。
「私もあの辺りには旅をしたことがあります。ルーベラを越えてフルデミの方まで、仕事で。丁度紛争の前でしょうか。慣れない道にへどもどしながら崖際の道を走ったものです。あのでこぼこ道に比べたら、この辺りは全く穏やかでいいものです」
「人は見かけによらないものだということを、すっかり忘れておりましたよ」
ならばもうしばらくの間私の昔話につきあってくださいますか、と老人が言葉の合間に脚を組み直す気配が伝わってきた。
「政府からは過激派の巣窟とみなされた場所ですが、実際のところどうだったのかは知りません。確かに、潜伏にはもってこいの場所だ。あなたも車窓からご覧になられたのであればご存じでしょうが、峠を越えるまではなにしろ道が狭くて入り組んでいる。一度山脈を超えれば穏やかな丘陵が広がっていて、元々はその丘陵地帯で養った羊の毛を加工したり売りさばいたりするところからヴェキポーレの町は発展しました」
私は行商のせがれでしてね、と老人が言った。
「刺繍や織物が有名で、首都に持っていけばそれなりの値がつきます。私の親父は博打で身代を傾けたあげく街を追放された身でしたので、親父は首都に出かけていって品物を売りさばき、私は親父の代わりに御用聞きで街の店を回り、注文の品を受け取るのが仕事でした。市街地は織物の店がひしめき合っていて、家族経営の小さな店の、二階が工房で、一階が帳場でした。あの地方特有のせり出した窓がずらりと並ぶ様はご覧になりましたか。窓の外には鉢植えを置きましてね」
執事の声には街の話になる以前には見られなかった東方訛が、薄い皮膚の下から肉薄する。紛争の話はどこへ行ったのかと思う程ののどかさだ。椅子の部屋では誰かが暖炉の前で薪をくべるのか、熱がつかの間遮られる。
「父親が一階で帳場を仕切り、二階で妻子が刺繍や織物に励む。通いで縫子をやるものもおりましたし、商いに出るものもいました。私は親父に隠れて糸の輸入をしまして、それを売りさばいて小遣いにしたものです。染め粉と色糸が一番売れます。意中の娘がある若者は色糸を送って刺繍を頼み、娘の方はハンカチなんぞにその糸で刺繍を凝らして若者に渡す。ですから良い年頃になると、娘は日がな二階の出窓の辺りにいて、織物や刺繍をしながら下の道を通る人々を眺めている。椅子の模様──あれは薔薇の花ですね。ヴェキポーレの町ではめいめいそれぞれの得意の紋を持っていて、ハンカチ一枚にも名前代わりに家の刺繍を入れるんです。あの薔薇の模様の家もありました」
娘から誘うときはハンカチに自分の家の模様を刺繍をして渡すので、色男が町を歩くと二階から刺繍がされたのハンカチが雪のように降りますよ、と執事は家具職人を見たらしかった。
「先生ならお土産には困らなかったでしょう」
「あいにく天気が悪い日でして」
「では山羊のラクレットはお召し上がりになりましたか? 羊の方は毛を取りますが、山羊の方は乳を取るんです」
仕事で行ったもんですから──と答える家具職人の声に済まなさそうな色が混じった。
「あまり長くは滞在しなかったので。お客様からのご注文の皮がどうやらあの辺りにありそうだと聞いて向かったのは良かったのですが、紛争がはじまりかけていて……いえ、もうはじまっていました。首尾よく上物が手に入れられたので、大慌てで帰ってきた記憶しかありません」
言われてみれば出窓が軒のように連なる通りもあったかもしれませんが、と慰めるように言う家具職人の言葉に耳を傾けながら、暗闇の中にその街の姿を思い描くことにした。日のよくあたる二階の窓は、より多くの光を求めた結果道に向かってせり出しており、その先に木組みの鉢入れがあって、各家の家紋に使われる花が植えられている。その鉢植えに水をやるのはその家の若い娘の役目だ。手入れをしながら草木の枝の色や形を覚えて、刺繍の図案を作るときの助けにする。