吸血鬼の椅子
家具職人は丁寧に肉を椅子からはがし終えるとそのまま頭や心臓の桶とは別の聖水桶に肉を放り込む。どぽんと肉を飲み込む水音に、整形したチーズを塩水に漬ける工程を思い出した。ヴェキポーレではチーズの製造も盛んだ。ラクレットチーズなら表面を塩水で拭きながら熟成させる。椅子の保守のために塗られるクリームもチーズに塗られる塩水と同じなのだろうか。塩も確か吸血鬼の弱点の一つのはずだ。続いてもう片側の肘掛けの肉もはがされたようで、こちらも音をたてて聖水桶に飛び込む。水の中で鋲の抜かれた指先が掌を揺らしてもう片方の手に近寄ろうとするのを制止しながら、家具職人の声に耳を傾ける。たゆたいながら腕の中で骨がゆっくりとした速度で再生していた。続いて椅子の背の裏側の一枚皮が血を滴らせながら桶に飛び込む。脚の皮がはがされ、今は椅子の裏側のパズルのように癒着した皮膚の皮目を一つ一つ切り分けている様子を実況している。刺青を入れたはずの脚の付け根を見てみたいと思ったが、あいにく頭の桶はしっかり蓋がされているので見ることは叶わなかった。
家具職人の饒舌が立ち止まる。
「さて、」
そうして茨の檻の底に指を差し込むと力任せに引っ張り上げた。絡まりあった銀の茨のその隅々までに肉体がひっかかっていて家具職人に口から圧縮した息が漏れる。悲鳴を上げたいのはこちらも同じだ。身体の水槽の手足が暴れ回ってしぶきを上げる音が聞こえた。激痛をかみしめた奥歯が砕けてまた再生する。おびただしい血が椅子に流れて、それが細く長く逆立して椅子からはがれた身体に向かっていった。見えなくとも血が流れているからそれが判る。ようやくはがし終えたところでよく軋む小さなスツールに座り込んでいた家具職人が、平たい芋虫のようにのたうちながら肉を再生させようとしている肉の塊の端を掴んで身体の桶に投げた。内臓を失ってがらんどうの胴体がそれを受け止めると太ももの付け根につなぐ。
内臓は再生させなくていいからね、と言うと再びスツールに座った。
「君の心臓の大きさからすると多分再生しないけど。吸血鬼はある程度年月を経ると、内臓が退化していくんだ。人とつきあって飲んだり食べたりする吸血鬼なら割合残るけど、椅子になってからはそんなものはついぞ使った試しがないだろう。代わりに脳と心臓は肥大していく。脳は許容量に上限があるから、主に心臓。桶の大きさいっぱいいっぱいまでね。大きくなりすぎた苺みたいに、桶の中にみっちりにつまる。どこまで大きくなるのか試したことはないけれど、はてさて……」
大分いいかなと家具職人が言って椅子から立ち上がると、心臓の桶を身体の桶の近くに置いて、残りの細かな皮膚を椅子からつまみはじめた。
「こっちの椅子は溶かして、不純物を取り除いたらまた別の椅子の材料に使う。気候のいい頃に数日日にさらせば絡まった肉も落ちるし、どのみち銀は溶かすから」
いけすの魚に餌をやるように拾い終わった肉をばらばらと水槽に放り込むと、椅子の腕にかけていた鎖の錠前を外す音が聞こえた。わずかに心臓の方へ向かって動こうとする拷問椅子を担ぎ上げてどこかへと持って行く。外に干しに行くのだろう。しばらくすると今度は工房中をがたがたいわせながら別の何かを搬入してきた。また新しい椅子を作るのだろうか。銀の拷問椅子にしては大きさの割に軽い。これは大小からなる二つ一組の机で、それぞれ表面に皮の拘束具があって、大きい方の机に四肢を、小さい方の机に頭部を固定するんだ──と振動に乗せて歌うように家具職人が告げて、どさりとその上に何かを乗せた。銀の留め具で机の上の何かを手際よく固定する。
「ようやく本日二人目の吸血鬼のお出ましだ」
頭達が音もなくざわつく気配が工房に満ちはじめた。
味見ができなかったのが残念だけど、と鋸を道具箱から取り出しながら家具職人が小さく呟く。今日日、吸血鬼のほとんどが──これも家具職人からの受け売りだが──血を吸う機会には恵まれない。人間の血を吸うことは今も昔も吸血鬼にとって極上の喜びであったが、獲物調達のリスク、感染症への対策(不老不死とはいっても病気は別だ)、何より血を吸われた人間が吸血鬼となってしまった場合の事後処理の煩雑さから、文字通り吸血鬼は血に飢えていた。そもそも飲まなかったところで死ぬわけではない。平素から血を断っている吸血鬼の方が今や主流派で、椅子にされてしまった吸血鬼はもとより一滴の血も食料にもありつく機会は与えられなかった。例外として、家具職人の職にある吸血鬼だけは家具を作るために血にありつく機会に恵まれている。家具職人は無言で首筋に鋸の歯を立てると(見ていないから推測の域を出ないが、作業手順を鑑みるにおそらくそうだ)水分の多い身体を削りはじめる。心臓の拍動一つ分にも満たない間に、鋸を挽く音がくもぐった男の──ラサだ──絶叫に変わって、声の合間に聞こえる家具職人の挽く鋸の速度も上がっていった。鋸を挽く速度を上げるのは何か特別な理由があるというわけではなくて、単に絶叫が耳障りだからさっさと終わらせてしまおうという魂胆の他になかった。声帯までたどり着いてしまえばいくら泣き叫ぼうともすかすかとした息の音にしかならなかったし、大体がそこに行き着く前に失神する。ラサの声も次第に小さくなって、ついに聞こえなくなった。鋸で頸椎の軟骨部を削る音だけが聞こえる。
最後の皮を掻き落とすと鋸の音が絶えて、拘束具を外す音が聞こえた。ひときわ大きな水音が工房の中に響き渡る。多分頭の方だろう。特注の桶でね──と家具職人が再び口を開いた。
「いつもは普通のバケツくらいの桶なんだけど、これはその倍くらいある。気の利いたアクアリウムくらいのものを想像してもらえればいい。そこにある身体の桶よりはずっと小さいかな。あれは元々バスタブだから」
安かったから購入したんだけど、壊れないからずっと使っているんだと家具職人が言った。
「蓋の構造はイタリア式で、普通の桶は半水式。桶の……外側だね。君たちのいる方に向けて扉が開くから、普通半分しか聖水が入っていないんだ。そうするとどうしても高さが必要になる。このイタリア式は水槽の縁までなみなみと清水を注いで扉付きの蓋を落とす。そうすると水圧で内開きの扉が閉まって、開けるには桶そのものを壊すしかなくなるんだ。おかげで桶の高さは半分にできるし、蓋も随分丈夫にすることができる。欠点はメンテナンスのために頭を取り出すことがほとんどできないってことだけど、この桶は二度と開けるつもりはないから問題はない」
家具職人が私の首が入っている桶の扉を開けた。
「それよりも頭を二つ分入れるから、頑丈に作らないと」