吸血鬼の椅子
蓋にあいた扉を桶の中に向けて押し開き、両手で開いて指先でそれを固定した。そのまま逆さにひっくり返す。暗闇が内開きの蓋に向かって落下して、聖水もろとも世界の内側へと転び出る。銀の椅子がそこに、腰掛けるだけなら二人はゆうに座れそうな寝椅子でまだ皮は貼られておらず、棘と茨をさらけ出して工房の中に控えている。その隣にはおぼれるように手足の突き出る水槽があって、手前には頭部の切断された若い男の裸が転がっていた。一瞬の光景だ。すぐにまた水の中に落ちて何も見えなくなる。目と鼻に染みる聖水を飲みながらその刺激に感覚を慣らしていると、追加で水が注がれて、頭上で蓋が閉まる音が聞こえた。イタリア式だ。二度と開くことはない。見慣れた暗闇で目を開きながら、暴れ椅子の首はそうそう外に出すわけにもいかないだろうなと大きく息を吐く。人間だった頃なら盛大なため息になっていたはずだ。そうしてゆっくり沈降する。
首の皮が桶の底を踏む頃、大きく傾いだ頬に何かがあたった。遠くで家具職人が居並ぶ頭桶に向かって、にぎやかに解体ショーを繰り広げている声が聞こえてきたが、拾いたいのはその音ではない。ラサ、ラサ。呟いた声も家具職人の声に遮られて脳骸にすら響かない。ラサが解体されているのならば、まず切り落とされる頭蓋がどこかにあるはずだった。頭は二つ分入れるから。細胞に浸透して再生速度を鈍らせる聖水を相手に苦心しながら耳殻を発達させると、大気よりはるかに粘り気のある闇の中をゆらゆらとさまよう。この頭桶にはラサの頭も沈んでいるはずだった。家具職人が語る工程は、骨を砕き終わって次の段階へ移行しようとしている。
バスタブの中でおぼれている腕を乱暴に家具職人が掴むのと鼻先が何か暖かいものに触れたのはほぼ同時だ。先に動いたのは桶の中の暗闇の方だった。わずかな面積でもふかりと沈む、弾力のあるそれは、一度暗闇に離れると今度は牙が口蓋を覆う。次は皮の貼り付けと切断および縫合だ。バスタブの中でおぼれていた私の身体を家具職人が引き上げる。
薔薇の出窓の君、と口蓋の中で舌先が小さくうごめいた。多分それしか名前を知らない。舌と舌とを噛んで引き寄せ、口腔をぴったりかみ合わせると、重心を失った頭がくるくる回った。水槽の外では相も変わらず、立て板に水といった調子で家具職人が口上を述べながら売り物のように糸と針を取り出す。今回の椅子は、とかつて窓越しに口説いた男の声が言うのが聞こえた。題して恋人達の椅子だ。脛と脛を縫い合わせ、腕と腕を縫い交わし、比翼の鳥も連理の枝も別れがたければ縫合すればよい。特殊の糸は時が経てば消えたし、縫い取る針も銀ではなくて鉄の針だから傷口はすぐに癒えた。血肉が交わり成すものは、常の場合子供であったがこの場合家具だ。椅子は子供をなし得ない。だから伴侶ではなく恋人だ。
暖かく弾力のある座面に横になって、通常上肢の肉を使う肘掛けは枕代わりにことのほかふくよかに仕立てる。対して背もたれは低く、肘掛けに連なるように低い稜線を描く。山の斜面には野薔薇や薊の茂みがあって、そこに向けて背の皮が投げられた。山肌を血で濡らす。銀のバンドが皮の上からかけられて、椅子の中に砕いた骨と溶かされた銀が流し込まれるまでの仮の固定をする。銀の針に身が削られて、またじわじわと再生した。ラサの傷跡に細胞が入り込み、傷跡にラサの血肉が紛れ込む。口蓋を這い回る舌はさらに勢いを増して、舌が絡まってほどけなくなるのではないかと思うほどだ。座面に肉が貼られ、脚に皮が貼られた。右脚の太ももの付け根は前と同じように椅子の脚の裏に隠され、その傍らにラサの指先が置かれる。
椅子が逆さにされて、家具職人が椅子の底面に雑多な肉を詰め込み終えた。骨が砕かれて坩堝の中で銀と煮られる。それが綺麗さっぱり椅子に流し込まれると、熱が冷めるのを待って椅子がどこかへと運び出された。どこへ行くのかは知らされなかった。きっとまたどこかの屋敷に運び込まれるのだろう。
頭桶は相変わらず家具職人の工房に置かれていた。家具職人がいないときに桶達は声を発することはほとんどなかったが、いつも以上に静まり返っている。二度と開かれぬ水槽の中から漏れ出す睦言を聞こうと聞き耳を立てているのだろう。声帯を取り上げられた水の中の言葉はあまりにもかすかだ。ラサ、と舌の先が動くのを感じ取って、口づけが優しく迎えに来る。耳を澄ませたところで何も聞こえなかったし、聞こえたとしても居並ぶ桶や家具職人にはその声が何を言っているかは判らないはずだ。ヴェキポーレの街はもう誰もいなくなってしまった。私たちはとうに滅んでしまった言語で話した。迷路のようにつながった血肉は目抜き通りとは異なる路地になって人の代わりに血液が行きかい、臓腑の軒には水仙や雪割草や各家の紋になった花々が死体に浮き出る血管網のような枝葉を繁らせて、真っ白なハンカチのタブラ・ラサと日がな刺繍に明け暮れる薔薇の出窓はいつまでもお互いの名を知らぬまま呼び合う。通りは無数の家具が行きかっていた。みんな椅子の子供達だ。ラサ、ラサ。椅子に誰かが座り、また去っていった。誰も皮の内で起こっていることは知らない。椅子の主人も、吸血鬼もだ。なに、と眠そうに声を上げるラサの意識を右脚の、付け根の辺りの、皮膚が縫い合わされている辺りに向けさせて、笑いを含んだ声で呼びかけた。
──また冬が来たわ。
さっと吹き込んだ冷たい日光を肌に受けながら、そうだねと眠そうに言ってラサは再び瞼を下ろした。