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吸血鬼の椅子

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「難しいでしょうね。この椅子の余計な手足を切り落として、元のように形を整えたとしても、そのまま死んでしまうか暴れはじめるかのどちらかです。あなたがそれでいいとおっしゃるのなら、それでもいいのでしょうが……」
 ヴェキポーレの椅子はもう作れないんです、と家具職人が言った。この椅子が修理できない場合でも贖いたいとおっしゃっていた方が一人いましたが、と言いながら歩き始めて床に散らばった道具の中から、銀の鏨とハンマーを拾い上げる。
「気持ちは判ります。皮がお好みなのでしょう。しっとりしてきめ細かな肌に、暖かな体温。程よく日に焼けて、けれども透き通るように透明な肌。土地の名は残っても、今あすこにいる人間は全く別の性質の皮膚なんです。無論、他にも良い産地というのもあるにはありますが」
「あの戦争は全て彼の仕掛けでしたからな。全く、カファー卿ももっとうまくやってくれれば──」
 確かに罪をなすりつけられた箇所が大いにあるとは言っても、大半は彼の手の内でしたからね、と家具職人が大きなため息をついた。
「今やクルツェは貧困の巣窟となって、度々流行する皮膚病のおかげで良い皮は取れず、ニーザイは土に毒が散かれて生身の人間ではとても生きていくことができない。ヴェキポーレに至っては、表面上、何もない顔を装っているが泥沼化した内乱に第三国が介入し、ほとんど虐殺の限りを尽くしてがらんどうになった大地に自国の農奴を入植させたから全くの別物です。ひょっとしたら、彼は良質な皮を手に入れるために戦争をしていたのではないか、と時たま思うことがあります。あの方ほど椅子に魅せられた方はいなかった。彼の戦争の現場は、いつだって良い皮の産地だ」
「そうしてその喉を絞めてしまえば」
 家主の低い声がそれに続いた。
「所有する吸血鬼の椅子の価値も跳ね上がる。先生も随分お仕事をなされたのでしょう。家具仲間から椅子のリストを見せてもらったことがあります。旧カファー卿所有の椅子の制作者は、ほとんど全てがあなたの名前でした。カファー卿は戦争商人でしたから当然地の利があるとは思うのですが、それでも全てがあなたの作というのは」
「ああ、そこまでは考えたことがありませんでした。本当に、計算高い方でしたから、そうもくろんでいたとしてもおかしくはない。……もっとも早逝する可能性までは計算に入れていなかったのが大きな手落ちですね。人間は往々にしてそのことを忘れがちですが。これに関しては救いようがない」
 ようやく動くようになった手をそろそろと動かして執事に触れた。椅子の背面にあたる部分で、話をしている場所からは死角にあたるので家具職人はまだ気がついていない。この部屋に出入りする人間であれば何度も椅子のそばで名前が呼ばれているはずなのに、その名を耳にしたことはなかった。どうして早くに耳を作らなかったのだろう。ヴェキポーレにいた頃も彼の名を聞いたことはなかった。唯一知っているのは彼のあだ名で、それはラテン語をかじった友人が、彼のハンカチに何の刺繍もされていないことをあざけって言ったことに起因する不名誉な呼び名だ。
 ――ラサ。
 懐かしくもない名前なのだろうがそう呼ぶより他になかった。向こうも私の名前は知らない。年老いた彼の口からこぼれ出たのは、薔薇の鉢植えが窓辺にある家にいる娘であることしか意味しない。ラサ、ラサ。桶の中で小さく呼びかけながら指で彼の肌に触れた。死ぬのは怖い。例え自分が吸血鬼になっていたとしてもだ。家具職人が手にした鏨とハンマーの使い道は、骨を砕くことの他に、心臓の桶を突き破ることもできた。持ち主が共に葬ってくれと遺言を残していった椅子の、己の形を忘れた椅子の、暴れ回って手に負えなくなった椅子の、銀の骨格から一片の肉も骨も残さず消し去るための最良の方法がその鑿とハンマーで心臓の入った桶をぶち破ることだ。鑿はサンザシの杭でもよかった。家具の制作や修理について饒舌すぎるきらいのある家具職人も、この作業についてばかりは口数が少なくなった。家具職人としてもあまり本意ではない作業であるらしい。ただ、工房内に心臓の桶の蓋を破るハンマーの音が聞こえると、それまで激しく暴れ回っていた椅子もたちどころに動きを停止して再び動くことはなかった。今までの騒々しさが嘘のように静まりかえって、あとは銀の拷問椅子を切り分けて炉にくべるためにバーナーを持ち出す音がわずかに聞こえる程度だ。自分が死んだあとの音を自分が聞くことはない。
 ラサに向けて伸ばした手に家具職人が気付いたのか、あっと声を上げてラサのそばに回り込んだ。それよりもわずかに先んじて温かい額が指先に触れる。家具職人はその手をひきはがすつもりなのか掴んで、そのまましばらく考え込んだ末に、椅子の向こうの主人を呼んだ。
「彼に係累は」
 あるいは吸血鬼であるという風聞は、と問いかける声が次第に足早になる。
「ないはずです。古い人間ですから親はとっくに死んでいるはずでしょうし、身内も知音も、確か何かで死んだと言っていました。一人者で、妻子はないはずです」
「もしかしたら椅子はどうにかすることができるかもしれません」
 家具職人が床に膝をついてラサの腕を取り上げると脈をとりはじめた。磨き上げられた太幅な靴が血溜まりの中に降りるのが見える。吸血鬼といえども身体と魂からできているのですが、と家具職人が言ってポケットからプラスチックの塊を取り出すと、一度だけ音をたてて執事の肉体を電撃で焼いた。
「魂とは比喩で、この場合は脳です。不老不死の身体を魂で以て制御する。幸い自分の意思で変貌ができるものですので、たとえ齢数百だとしても見た目は青二才ということもあり得る。まあ、あまり変えすぎるとわけが判らなくなるので大体は元の顔ですよ。魂の顔です。たまたま彼の魂は若い頃の姿のままだった。人は見かけによらぬもの──況んや吸血鬼をや」
 そして彼は吸血鬼になることによって若返った、と椅子から伸びた腕を掴むともう一度電撃を放った。
「彼を吸血鬼にしたのはそこにある椅子です。正確にはこの椅子の頭が彼の首筋を噛んだことによります。人を吸血鬼に変化させることについては吸血鬼の側でのやり方が必要でして、噛む方に明確な意思がなければ普通吸血鬼にはなりません。中枢近くで血管が太い辺り──首筋や顔を狙って、かつ吸血鬼の方から血を送り込まなければならない。それから、いろいろと厄介な規則約定があって──言ってしまえば吸血鬼の同胞がうるさいのです。ですから新規に吸血鬼を作るのは、私のように職業として家具職人をしている吸血鬼か、よほどの物好き、あるいはあまりにも手が足りないがために眷属を緊急で要するときだけです。眷属とて今は数を増やさないためにいろいろ縛りがある。だから普通、吸血鬼を作るなんてことは滅多にやらない。ですがこの椅子に貼り付けられた彼女は別です。何せ吸血鬼になった途端椅子に貼り付けられてしまったのですから、吸血鬼界の規律など知るよしもない。そもそも家具にされたは吸血鬼に数えられることすらないのですが、機構としては我々と同じ機構を有していますので彼を吸血鬼にすることができる」
 全く厄介なことになりました、とさほど困っている風でもなく家具職人が言った。
作品名:吸血鬼の椅子 作家名:坂鴨禾火