吸血鬼の椅子
心臓を手に入れることもできなければ、椅子の地獄から逃れることもできない。人であることを忘れてずぶずぶ腐ることも、かつての恋人とも呼べない淡い思い出の人の腕の中でよみがえることもなかったし、ましてやその恋人は牙の一撃を受けてまさに死なんとするところだ。意識を失った執事が頭から卒倒する。その肌の、かさついたのが従前に比べて明らかに若く脂に濡れているのに気付いて首を噛む力を強くする。思い出せ。どうして椅子に貼り付けられることになったのだろう。それは吸血鬼になったからであったし、吸血鬼に血を吸われたからだ。銀の束縛から抜け出した腕が指先の爪を鋭くさせながら家具職人の肩をひしと掴みにかかる。あの男はかつて行商を装って町に出没して私に駆け落ちさせた。私が椅子になったのは、あの男に血を吸われたからだ。おかげで椅子に貼り付けられても死ぬことはなかった。ならば、と床にぶつかる衝撃に備えつつ、首筋の牙をいっそう食い込ませる。思い出せ。あの男はどのように私を吸血鬼にしたのだろうか。鈍い衝撃と共に地面に転がる。口に溢れる血の味は我を忘れるほど甘い。日がな貨物と揺られて疲れ果てた逃亡の日の夜に泊まった安宿の接吻はこうも滋味深くはなかった。黴くさく、元からあるはずの養分も奪われて代わりに粒の粗い胞子が舌の上でざらざらする悪血が男の歯茎から滴っていた。血こそが感染の源だ。舌の先を歯で食いちぎると、それが再生しないうちに首筋の傷跡を舐め回す。血は骨で作られた。頭骨の中の細胞が造血のために活動をはじめる。黴に冒されているのはまさにその骨髄に違いない。そこで作られた血が肉を巡って不死となる。どす黒い血が口からこぼれた。老いた首筋へ舌でそれを塗り重ねていくごとに男の肌の皺は消え、どことなく表情も若やいで、頬の色も復してゆくようだ。
「させませんよ」
いつの間にか桶を抱えたまま近寄っていた家具職人が再生と共に伸びた髪を掴んだ。執事の首の肉のかけらを歯の間に残したまま引きちぎると空桶に放り込む。桶の中にはもう聖水は残っていなかったが、がちんと音をたてて頭上で扉が閉められた。桶の中は世界の外側だ。招かれるまでは入ることができない。
頭の方ではどうしようもないので椅子にはりつけにされた身体に意識を集中させると、復した運動神経を使ってあらん限りの力で暴れはじめた。幸い心臓の桶なら近くにあるので、椅子の四脚になお四脚を生やして部屋の中を疾駆する。鋲の打たれた間の肉の嵩を増やして鋲を抜き、そうして増えた隙間から爪先を生やし、指を生やして腕を伸ばし、再生速度の速い爪をあちこちに生やして厚くし、鋭くとがらせると壁に掌を食い込ませる。銃弾が向こう脛をかすった。装甲を厚くし跳弾を避けながら跳躍した椅子の背中が天井にあったシャンデリアを大きく揺らしたらしい。硝子が割れる音が立て続けに聞こえて、その頃には落下をはじめた左から三本目の脚で部屋の入口辺りの床を踏みつける。家具職人が道具を並べていた応接セットの机の脚を破壊したらしかった。木の裂ける音と共に銀の鋲が脚に殺到した。銀でできた箇所の傷の治りは遅い。仕方なく脚を一つ放棄して、新しい脚を生やしはじめる。
心臓を取り返さなければならないが、何も見えないまま暴れ回ってもいっこうに桶の元にたどり着けない。脚を生やし終えると座面の裏の肉と肉の間に空間を作って視神経を養いはじめた。壁や天井を駆け回るのは止めて、細胞の再生速度が早い方向を探る。心臓の桶はより再生速度の速い方角にあるはずだ。放棄した脚の皮膚を突き破って無数の乱杭歯が痛痒を伴いながら生えそろったので、身体に向かって引き寄せた。一打。宙を飛んだ脚に鈍い衝撃が走った。誰がうめいてうずくまるのかを確認する暇も惜しんで椅子の身体が間合いを取るために走り始める。一直線に走った火線の殺気に柱を蹴って向きを変え、今度は殺気の源へ突進する。その間にも眼球の再生は続いていて、強膜の内側に硝子体を満たした。涙腺を整備し、皮目を縫い合わせていた糸を爪で切ると目を開く。
はずれだ。
開いたばかりの目に、椅子の主人が腰を抜かしたのか床に座り込みながら猟銃を向けていたので、むき出しになった茨付きの銀の脚で蹴り飛ばす。手頃な武器を取って向けてみたものの、跳弾を恐れて一瞬の躊躇が入り込んだのだろう。眼球を移動させながら、傷の状態を目視する。先程弾丸のかすめた傷跡がもう治りきっているからこれは家具職人の指示ではないなと思った。家具職人なら銀の散弾を使うはずだし、過激派なら金属片入りの爆薬だ。心臓が近い。眼球が桶のある方角にたどり着く前に、桶に面した細胞の増殖速度が加速する。背もたれから隆起した腕を一本二本四本十六本、大小も構わずあらん限りに生やして鱗皮の一枚一枚を棘のように鋭くし、座面は堅く銀の茨の隙間から乱杭歯を入り乱れさせると伸ばした腕が掴んだものを片っ端からそこへたたきつける。交戦を続けながら駆け回る脚が床の血溜まりを踏んだ。目視する。血溜まりの中に人が倒れていた。エドモンド──ではない。どう見ても十か二十の青年だった。片手にハンカチが握られていて、刺繍の色が判らなくなるほど染まりきっている。
どうしても外すことのできない銀の脚環のついた脚をその近くに下ろす。外ではメイドのナタリーが言いつけ通り固く扉を守っているらしく、これだけの物音がしても誰も覗きに来なかった。暖炉が赤々と燃えていた。眼球はまだ桶が見える場所まで届かなかった。無数に生えた腕が長く伸び、手当たり次第にものを掴んで座面に投げたがまだ心臓の桶にも頭の桶にもたどり着いていない。人の胴を掴んだ気がするが、手触りからは家具職人ではなくどうやら屋敷の主人の方だ。掴んだ勢いのままそれをぶん投げて、そのまま腕を増殖させる。指先が荒れた木肌の何かをかすった。銀のたがの、大きさは一抱えほど、胸腔ほどの体積がある扁平な木桶がどくんと脈打ち、桶をかすめた指の五指が八指十六指三十二指、腕が二つに割れ爪が再生し中程から肋骨が再生し造血作用で噴き出した血が新たに歯肉を作り胃酸をまき散らしながら皮膚を再生させ無数の眼球が瞼も生えそろわぬうちに次々と成り、熟れて、
「かかった」
宙を焼く音が聞こえて神経の中に火花が走った。見たわけではないのに、見えないはずの閃光が見えた気がした。椅子の筋肉がもんどりを打って崩れ落ちかけるのを銀の茨と首輪が阻止する。桶の中の目がまばたいた。二人がけのソファの下から悪態をつきながら家具職人が這い上がるのを、床に落ちた腕の表面にあった眼球がとらえて白濁する。宙を焼く音が二度、三度と聞こえて屋敷の主に組み付いていた腕が床にだらりと落ちる衝撃もどこか遠い。電撃だという結論に至ったのはしばらく経ったあとだ。荒い息と共にようやく立ち上がった家主をどこかに──多分家具職人が身を潜めていた二人掛けのソファだと思う──座らせながら、この椅子はもう駄目ですねと家具職人が呟くのが聞こえた。
「暴れ回ることを知ってしまったから。処分しないと」
長い嘆息のあとに何とかならないものでしょうか、と主人の小さな声が聞こえた。
「どうしてもですか」