吸血鬼の椅子
無言のまま考え込むような気配が木桶の外から伝わって来て数拍、じゃあこうしようかという軽い声と共に今度は左腿の付け根に浅くナイフが入れられて皮が引き延ばされる。やがて切り取られた薄皮が椅子の脚の裏にぺたりと貼られた。こちらは枝や針のない、銀の針金で軽く固定される。
今日は仮止めにして明日注文主に見せるよと家具職人の言うのが聞こえた。桶の中からは肉の貼られた椅子の姿はまるで見えなかったが、家具職人の声に従って頭蓋の中で何度も椅子を組み立てる。その椅子が今、目の前にあった。背あての裏側は腹の皮を伸ばし、肘掛けには腕と掌、脚を覆うのは上肢と脛の前面および甲。余った皮肉は座面の裏に詰め込み、肉をそがれた骨はハンマーで砕かれて筒状になっている銀の骨組みに流し込まれている。そうすることによって、細胞レベルで同胞を求める吸血鬼の血肉はより強固に椅子に固定されるのだ。薔薇の刺青は、と状況を把握するために必死に眼球を動かしながら思う。自分で彫ったものだから、家具職人に説明してもらわなくても思い描くことができる。刺青はヴェキポーレの町娘の間では公然と、しかし内密に行われている風習の一つだ。普通、それは見えないところに入れた。椅子の脚の裏というのはこの上なく適切な場所だったが──そもそもにおいて、自分は椅子ではなかった。吸血鬼ですらなかった。かつて懸想をかけた男の面影にだまされて、椅子になってしまったただの人間だ。老執事の顔を仰ぎ見る。目下家具職人とこの家の主人は暴れ回る椅子を押さえるのに手一杯だ。心臓の桶は家具職人の足下から少し離れた床の上にある。あれさえ手に入れることができれば首から新たな身体を生やすことができるはずだ。椅子にされた手足は捨てて、ここから逃げ出すことができる。千載一遇の機会が到来していた。心臓に張り巡らされた糸はおいおいほどいてやれば良い。薔薇の刺青のことは確かに惜しかったが、今はそれをどうこうしているほどの余裕はない。ただし、今のままでは心臓の入った桶はいささか遠すぎて、手足を生やすには至らない。ならばまずはこの手から逃れ出る必要がある。
──吸血鬼というものは、飛べるものだろうか?
痛覚は今も宙を飛んでいるが、頭蓋まるごととなると判りかねた。首は老執事の胸の前にあった。足下に転がったとしてもすぐに拾い上げられる。ならば上だ。老執事の顎か、もしくは首筋に一撃、そうだついでに首筋から生き血を啜ってやれば良い。そうしたら多少心臓の桶が遠くても、床を這い回るだけの力を得られる。脳骸をわずかに前傾させて、首を掬うように持つ執事の手に顎を乗せた。わずかに力を溜めて、顎の筋肉を使って跳躍する。
頭部がゆるく後方へ回転しながら宙を飛んだ。
大きく開けた口が首筋をとらえる。人であった頃に比べてぎざぎざと鏃の様に研ぎ澄まされた犬歯が執事の喉笛をかき切り頸動脈を破壊してその血を溢れさせた。あっと叫ぶ執事の声は聞こえたのかどうか知らない。逆さになった耳にはその後に続いた無声音の方がひどくよく聞こえた。
「薔、薇、の、出、ま、ど、の、──」
今はなき故郷の言葉だ。
考えてみれば先程の囁き声も、執事はずっと故郷の言葉で話しかけていた。だから誰からも気づかれなかった。そこにいる家具職人にすらだ。血に染まったハンカチが宙を舞って、天へ、つまりは地面の方へと落ちてゆくのが視界の隅をかすめた。ヴェキポーレのありとあらゆる家紋を集めたそのハンカチは練習用と偽っていたが、本当は少年の家の紋を知ることができなかったために取った苦肉の策にすぎない。行きずりの人に渡すハンカチであれば自分の紋を縫い取るしかないが、かねてより思い慕っていることを表すには相手の紋と自らの紋を絡ませた図案を縫い取る必要がある。けれども少年の紋はいくら跡を追っても知ることができなかった。手を拭うハンカチさえ何の刺繍もされていなかった。雪氷がようやく溶けてわき上がる、真夏でも冷たいヴェキポーレの水のしずくが首筋を伝う聖水の粒と重なって──あれから幾年が経ったのだろう。桶の中の頭蓋は季節の移ろいを見ることは叶わなかったし、完成されて屋敷に置かれた椅子からも感覚が失われていた。そうでもなければどうして身内に茨を飼う苦痛に耐えられたというのだろう。暖炉の熱のやたら熱いのも、夏の日差しのやたら鋭いのも、霜の降りる朝は屋敷の中も外もあまり変わらなかった。聖水のしみる痛みも今ではそうと思わなければ感じ取れない。時たま人が訪れて肌をなでるときだけわずかに感覚を取り戻した。そうしてうっすらとした寒さを覚えた。暖炉でたかれる火はいつでも温かかったが、それとて夏の間はたかれない。ただ長い時間が経過したことだけは判った。かつて置かれていた屋敷が荒れ果てて崩壊し、移築されて再び炉の前に置かれるほどの時間が経過していた。古き良き時代のヴェキポーレの町の、刺繍や織物の店のせり出した二階が軒を連ねるその下の石畳の道を、弾むような足取りで駆けていった少年もそれだけの星霜を経れば年老いたはずだ。
垂れ下がった眦に刻み込まれた皺が、迸り出る血の勢いにあわせて薄らぐ。執事の首筋に牙を立ててそのまま頭部が転がり落ちるのを防ぎながら必死に考える。逃げなければならない。初恋の人を置いて。そのまま転がれば心臓の入った桶の近くまで行くことができる。けれども騒ぎに気付いた家具職人が椅子を捨てて桶に手を伸ばした。そのまま椅子の皮の表面が激しく波立つのに構わず引き寄せて抱え込む。失敗だ。何もかもが失敗に終わる。