吸血鬼の椅子
国外から来た行商を口説き落として街を脱出した夜、安宿のフロントで流れていたラジオの声は疲労を色濃くにじませながら何度も同じニュースを繰り返していた。ヴェキポーレで大規模火災、爆発か──声明──過激派組織の。家族すら信用がならなかった。数年前から母はどこかの思想に染まっていたようだったし、父はそんな母と私を逃がさないために一階の帳場から動かなかった。母が何の思想に染まっていたのかは知らない。父も何の思想に染まっていたのかは知らない。私は外に出るようなすべがないのにもかかわらず、父からは母の、母からは父の、自分とは何か別の思想に染まっているのだろうとみなされていたのは確実だった。通りではいざこざが頻繁に起こるようになり──刺繍の他にすることもなく、日がな窓から下の通りを眺めていたからよく知っていた──時折ここから連れ出して欲しいという恋文めかした刺繍ハンカチを窓の外に投げた。その男にハンカチを投げる気になったのは、あちらの荒物屋で断られ、こちらの乾物屋で締め出しを食らって、宛所なく道をさまよっていたからだ。おそらく外国から事情を知らずに来た人間らしい。それならば国を脱出する確実な手段を持っているはずだ、と踏んでハンカチを投げたのだ。今まで何度も他の同じような行商に同じようにハンカチを投げたものの、色よい返事をくれたのはこの男だけだった。何より時間がなかった。父の用と母を偽り、その父が不在のときを狙って逃げ出したヴェキポーレの街は、過激派による爆発とその応酬の掃討とで蹂躙されかかっていた。事実、街に残っていた人間は外部から来た者の手によって残らず絞め殺されたとラジオは伝えていた。誰一人としてその手を逃れられたものはいない。過激派により対立組織の人員は爆殺され、対立組織が粛正と報復に走り、さらにその残党を殲滅せしめんがために諸外国から軍隊が押し寄せてきていた。皮の買い付けのために国外から来ていたという行商は、土地勘があることを期待して誘いに乗ったようだが特段悪い気はしなかった。こちらとて生命がかかっているからおたがいさまだ。その上別の人間であることは百も承知だったが、何となく目元があの少年によく似ていたのも気に入っていた。
やっとのことで逃げおおせた先の宿で、深夜、薄暗い中に、同じ床についていたはずの商人が立っているのが見えた。
肌に触れていたはずの寝具は全て払いのけられて、固い寝台の上に、夜着もなければ冷たさが肌に浸潤していた。いくら着の身着のままで逃げてきたとはいえ、服がなければ外を歩くことすらままならない。身を起こそうとしたところで手足を革のベルトで固定されていることに気付いた。歩くどころの話ではない。首元に熱い接吻の跡が熱を持っていたが、指で触れるわけにもいかない。
「なんとまあ。随分間の悪いところで目が覚めた」
行商の方はといえば、すっかり衣服を整えて、分厚い手袋をはめているのが目に入った。捨てて逃げるつもりだろうか。男の旅行鞄が口を開けて中身を白月の下にさらしていた。こればっかりは大事なものだから、と言っていたからさしづめ顧客名簿か小為替が入っているのだろうと踏んでいたのだが、代わりに入っていたのは華奢な工具とナイフで、それらの全てが月の光を受けて銀色に光っていた。寝ていた方が幾分かましでしたろうに、と言う家具職人の手に握られているのは細鋸だ。
丁度あなたの首を切り落とそうと思っていたところなんです、と男はそのまま腕を伸ばした。
「痛いと思いますけどね。まあ死にませんよ」
あなたは既に吸血鬼なので、と上下させる鋸の歯は既に一センチほど肉に食い込んでいたが、口中に詰め込まれたぼろ布のせいで悲鳴はさほど上がらなかった。その布が喉を逆流する血の味で染みていく。肉を切り終えたところで頸椎の関節に刃を入れる場所を探すために頭蓋が横に転がされた。銀の椅子が見える。あとになって思えば、そこは家具職人の工房だったのだろう。猫足の華奢な足首の傍らに、銀のバンドが転がっていた。今足首にはめられているのはそれだろう。座面と背当てには毛を逆立てたように針金の山が生い茂っているのが見えて、あんな椅子があるものだろうかと思った。まるで猫のふりをした巨大なヤマアラシだ。あなたはこれから椅子になるんです、とほぼ切り離された胴体に馬乗りになって鋸の角度を調整していた家具職人が、片恋の相手に似た目元でちらりとこちらを見て言ってから頸椎に鋸を入れる。視覚が激痛を伴いながら白く塗りつぶされた。
「今見た椅子は思い出せる?」
そうして骨を切り終えると髪の毛を掴んで頭部を傍らの桶に投げ込んだ。塩か酸にでもつけられたように染みる。その桶には聖水が満たされているから、とは家具職人の言だ。内開きになった桶の蓋を閉めながら、暗くてよく見えなかったのかもしれないなと家具職人が独り言のように呟いた。
「じゃあちょっと想像してみることにしよう。そこにあるのは一人がけのアームチェアだ。肘掛けのついた華奢な椅子で、猫足の──ちょっと洒落ているだろう? そこに針金が生えていてね」
先程のヤマアラシだ。僕は実際に使われていた拷問椅子を見たことがあるけど、と言いながら、しきりにごりごりと鈍い音を立てていた家具職人が言った。多分ナイフの研いでいたのだろう。
「あれは上に座らせて苦痛を味わわせるためのもので、作りも無骨なんだ。針というより鋲で、ものによっては裏で火をたいたり通電させたりするらしい。この椅子にも鋲はこれから打つんだけど、通電のための鋲なんて、本当はそんなものはいらない。針金の太さは直径一、二ミリ、特徴としては一本から枝分かれしてあちこちからみついている。君は刺青にいれるくらい薔薇が好きだね? じゃ、想像してみればいい。椅子の上には蔓薔薇の上に蔓薔薇が生えてこんがらがった茂みがある。いいかい──今から君の身体は、あの銀の椅子に貼り付けられるんだ。脚には鋲とバンドを巻こう」
具職人が刃物を研ぐのを止めた。
脚の付け根にナイフが差し込まれて、そのままぐるりと一周した。ついで骨に沿って切り開き、中を走る神経を引きちぎる。
「脚にも薄く皮を貼る。座面は腿と脛の肉をこう、押しつける。そうするとこの針金が肉に食い込んで、そこで再生するから強く固定される。膝の上辺りで余るか。そうしたら今度はここを」
銀の茨から免れていた脛の肉を、膝の上で真一文字に切り取ると腿と並べて貼り付けた。その上に腰掛けながら次の工程までしばらく間があったのは、針に糸を通す時間が必要だったからだろう。やがて腿と脛との境目になめらかな糸が通るのが判った。縫合が終わると溶けるんだと未完成の椅子の上で家具職人が言う。
「この調子で右脚も同じように貼り付ける。逃げようかと思ったかい? ところがこうして銀のバンドで押しつけておくからね、逃げられないんだ。……そういえば右の腿の内側に、薔薇の刺青があるんだっけ」