輝きのなかで
お礼を言った大志の前方で先に外に出ていたふみちゃんが手を振った。
「お祭りで会いましょう」
スケッチブックを抱えたTシャツ姿の男の子と門のところですれ違った二人は、逆上がりを練習する為に昨日の公園へと急いだ。
海沿いの道路で、差し出した掌を防波堤内側のつるつるした表面に滑らせ、ふみちゃんがハミングを始めた。
調子外れであったが、潮騒と相俟って妙に心地よく大志の心に届いていた。
神輿の上に乗る子が決定する日がやってきた。
散歩に出ていた大志は、ふみちゃんが下校する時刻に合わせて民宿に戻ることにした。
途中、公園の前を通り掛った。草生した地面から突き出した支柱に支えられた鉄棒が、ふみちゃんの感触を呼び起こした。
一人で逆上がりができて、大志に飛びついてきた柔らかい感触、不意に訪れた感触。
体の内側に籠ってきた熱が、(お神輿に乗れるの。お兄ちゃんありがとう)と言いながら抱きついてくるふみちゃんの像を創り出していった。
海沿いの道に出ると、(天女の岩)と地元で呼ばれている一枚岩が遠方から弱々しく大志の瞳に映った。
(天女の岩)だけではなかった。目に入る全てのものが、弱々しく映り、大志の力強い足取りに掻き消されていくようであった。
玄関のガラス戸を開けた音で、慌てて奥から出てきたおばあさんが、拍子抜けした面持ちで、ふみちゃんはまだ帰っていないことを告げた。
取り敢えず部屋に戻ると、大志は畳の上に大の字に寝転がった。
澄ませた耳に、左腕にはめた時計が秒針を刻むリズムが伝わり、緊迫感を徐々に高めていった。
(ふみちゃんは、学校で逆上がりができたのだろうか? 逆上がりができる、できないが選考に影響するのだろうか? もし、神輿に乗れなかったら? ……ふみちゃんはまだ五年生、来年もある)
大志は、幾度か反芻したことをもう一度整理した。
(神輿に乗ったふみちゃん)
概念化を逃れた象徴的なシンボルが目の前に姿を現す。その可能性への期待が、実際に見てしまった後に残るであろう、概念化されてしまったものへの物足りなさに、刹那陰りを見せた。
階段が軋む音が静まり、部屋のドアがノックされた。
「冷たいものでも飲むかね」
「すみません」
足音でおばあさんと知れていた大志は冷静に応対した。
「ふみちゃん、遅いですね」
おばあさんは、無言で氷の入った麦茶に続いてエプロンのポケットから銀色の鍵をつまみ出した。
「ちょっと出掛けるもので、あんたも出掛けるなら玄関閉めていってくれるかね」
「ええ……」
言葉を継ごうとした大志の掌をおばあさんが慌しい手つきで探ろうとした。
その仕草が(どうかしたのですか?)という次ぎに用意されていた言葉を掻き消していった。
階下からおばあさんが外出する気配が伝わってきた。
横たえていた身体の姿勢を幾度となく組み換え玄関の戸が閉まるのを待った。
口の中で、転がせていた氷の小片を一気に噛み砕き、内部に鈍い響きが伝わったのを合図に大志は身を起した。
民宿の外に出た時には、既におばあさんの姿は見当たらなかった。
コンクリート舗装の坂道を下り、ふみちゃんの通学路を辿っていった。
弓状に折れていく海沿いの道との接道部に出たところで、防波堤の切れ目に寄り掛かっているおばあさんを視界に取り込んだ。
おばあさんが見守る先に目をやった。
波打ち際で、少女達が舞っていた。
その輪のなかに、ふみちゃんを見つけた。
波の音が鳴りをひそめ、細石をさらっていくと、さざめく笑い声が運ばれてきた。
大志は、ふみちゃんを俯瞰し、おばあさんが立っている砂浜へと下っていく階段が設けられたところまで辿り着いた。
「ダメだったのですよ」
おばあさんが、すまなそうに頭を下げた。
「ふみが色々お世話になりまして」
「そうですか」
大志は、いつかふみちゃんがしていたように、防波堤の表面を落ち着かない仕草で触り始めた。
乱雑に置かれたように見えるテトラポットの向こうでは、首輪をつけた子犬が、ふみちゃんのスカートの裾にしきりに飛びついていた。
子犬に追いかけられ、はしゃぎながら少女達の後を駆けていくふみちゃん。この絵に微妙に漂うメランコリーに大志は耐えられなかった。
このまま立ち去ろう。そう思った。
「あれが、天女の岩ですよ」
唐突におばあさんが口を開いた。
「よく晴れた日にしか見えないもので。観光名所にもなってましてな」
大志は、ふみちゃん達のはるか背後に控える、歪な形の岩に微かに意識を向けた。
「天女が岩に姿を変えてましてな。岩が見えない時は、天女に戻って飛び回っているという言い伝えがあるのですよ」
「そうですか」
会話を終わらせる為に放った言葉が、震えた。
子犬と少女達を引き連れたふみちゃんが、向きを変え、大志の許に迫ってきていた。
「お兄ちゃん、きていたの」
大志のすぐ傍までふみちゃんが駆け寄ってきた。
「ああ」
「この子、久美ちゃんの犬なの。可愛いでしょ」
子犬を両手で押さえ、息を切らせた声を投げかけた。
追いついてきた少女達が、子犬に手を焼いているふみちゃんの少し後ろで止まった。
「うちに泊まっているお客さんで、景色コレクターのお兄ちゃんよ」
警戒していた少女達の顔が緩んだ。
「お兄ちゃんのお母さんが、お祭りのポスターの絵を描いたのよ」
得意げに皆を見渡すふみちゃんの後ろに、
ヘぇーという顔が並んだ。
「お祭りには来るのですか」
ふみちゃんの手許から子犬を抱き上げた少女、久美ちゃんがはにかみながら言った。
「うん」
返事をした大志が戸惑いがちにふみちゃんに顔を向けると、力強いはっきりとした言葉が返ってきた。
「久美ちゃんが、お神輿に乗ることになったのよ」
言葉を返せない大志の代わりに、愚図っていた子犬が愛らしい鳴き声を上げた。
「お家の人が、心配するからそろそろ帰るかね」
再び、子犬とじゃれ始めた少女達におばあさんが声をかけた。
「久美ちゃん、最後にもう一度ジョンを抱かせて」
ふみちゃんが子犬を受け取ると、他の少女達も「私も、私も」と寄ってきた。
「子犬欲しいな。私も子犬飼いたいな」
頬を子犬に摺り寄せ、その感触に陶酔しているようなふみちゃんの顔ばせが大志を捉えた。
(絵の主題の解釈を間違えたかな)
ホッとした心持になった反面、そのなかに混じった得体の知れない不安に大志は混乱していた。
「夕食はいつも通りでいいかい」
「ええ」
大志は、海沿いの道を引き返していくふみちゃん達の後ろ姿を見送った。
子犬との別れを惜しんでいるふみちゃんは大志を振り返ることはなかった。
耳に達する波打つ音が意識された。
大志は、波打ち際に向き直った。
少女達の足跡を満ちてくる海水が少しずつ消し去り始めていた。
刷新されていく砂浜を徐々に大きくなっていく混乱のなかで、身動きせず、ただじっと見つめた。
どうしょうもなく不安だった。身体を支えていた突っ支い棒が、なくなったような不安定さに、たまらず大志は顔を上げた。
いつの間にか現れた、水平線に覆いかぶさる薄く細長い雲が、そこにあるはずの天女の岩を隠していた。
(見えなくてもある)
大志は、おばあさんの話を思い返した。