輝きのなかで
天女が、自由に束縛されることもなく飛び回っている姿を天のカンバスに描いた。
どこまでも高く、どこまでも遠く。
「お兄ちゃん、行くよ」
出掛ける直前、お祭りが描かれたポスターの前で、須臾立ち尽くしていた大志にふみちゃんが声を掛けた。
「そうだね。そろそろ行こうか」
花の形をしたヘアピンをガラス戸に映し、満足したように微かに頷いたふみちゃんの背中に大志はつづいた。
玄関口で、おばあさんが腰を屈め、二人の靴の向きを直し揃えていた。
「おばあちゃん、本当に行かないの」
「騒がしいところは苦手でね」
不服そうなふみちゃんの口ぶりにも、手を休めずに大志を見やった。
「ふみをお願いします」
しっかりとした声に、大志は軽く頭を下げた。
おばあちゃんも来ればいいのに、と海沿いの道に出てもまだ不満そうにつぶやいているふみちゃんのきちんと梳かされた髪の毛が、時折吹く海風に乱されていった。
晴れてはいたが、目を凝らしても天女の岩は見えなかった。
(お祭りだものな)
大志は意識的に笑みを作った。
「何にやついているの」
ふみちゃんが、スカートの裾を慌てて手で押さえた。
「エッチねー」と睨んだふみちゃんに、今度は、本当に笑ったせいか、すんなり言葉がでた。
「子犬は、買ってもらえることになったのかい?」
「今、交渉中なの」
尖がっていた唇が、途端にやわらいだ。
「買ってもらえるといいね」
「うん」
曇りガラスから宝物を覗くような、短い会話に、大志は取り敢えず満足した。
小高く茂った樹間から赤い鳥居が姿を現した。それと略同時に、スピーカーを通したお囃子のリズムが立騒ぐ波の音に紛れて伝わってきた。
その時、初めて大志はお祭りに向かっている自分を実感した。
この日、この時の為に、この地にやってきたのだという思いが、大志の表情を強張らせた。
近づくに連れ、赤い鳥居が覆いかぶさるように画面を占領し始めた。
そこに続く石段が大勢の人を乗せていた。
「結構来ているね」
ふみちゃんの歩が早まった。
石段の上り口を跨ぐように組まれた仮設の単柱に幾つもの提灯がぶら提げられていた。
その単柱を手で掴み、仁王立ちしている男の表情が、こちら向いて崩れた。
「よう、来たか」
「源さん、こんなところで何しているの」
「ちょっと休憩だよ」
ほんのりと、酒臭い空気が通過した。
「お神輿は何時から」
「五時半ぐらいかな」
煙草に火を付けはじめた源さんの横を顔の前で手をばたばたさせ、ふみちゃんがすり抜けた。
「御輿、残念だったな」
「うん」
振り返らずに返事をした、石段を登る小さな背中を、大志は刹那見つめた。
石段を登り切る数段手前で、ふみちゃんに追いつくと、日陰になっている石段の先に開けた明るさを感じた。
そのままふみちゃんの後に続いて登り切った大志の瞳に、赤、青、オレンジ……フォービズムの絵のように色だけが強調された光景が飛び込んできた。
「着いたね」
ぽつりと言ったふみちゃんの言葉で、単純化されていた形が、それぞれの形に戻っていった。
「あれやりたい」
派手な柄のゴム製プールとは不釣合いな木杭に打ち付けられた古めかしい看板に(金魚すくい)と書かれてある辺りをふみちゃんが指差した。
大志は、そこにやった視線をずらし、そのまま境内に這わせていった。
真っ直ぐに東西に伸びる石畳を軸に、屋台が立ち並び、真ん中辺りで交差し南北に伸びる石畳の両側にも店が途切れることなくつづいていた。
向かって左奥中央に本殿、右側にはウコン桜、さらに右奥には赤い鳥居が見えていた。
そのなかを、岩に叩きつけられて弾けたような人波が往来していた。
母の絵のなかに入り込む。
そのことを一種のポーズのように考えた・
ふみちゃんが、ゴム製プールの脇にしゃがんで大志を待っていた。
トウモロコシが焼ける香ばしい匂いのなかを進み行くと、周囲のざわめきが大きくなったような気がした。
「出目金獲るわよ。出目金」
日常とは違う空間にきた緊張がやっと解れたのか、普段の調子で、枠に薄紙が貼られたポイの柄を振り回すふみちゃんの真向かいに大志は軽く膝を折り、中腰になった。
「あーだめー」という声と共に、一瞬宙に浮いた出目金が、破れた紙の真ん中から水面に落ちていった。
「あとちょっとだったのに……もう一回お兄ちゃんも一緒にやろうよ」
抵抗できない力ある表情に大志は、折りたたみ椅子に座った無愛想な若い男からポイと水を張ったボールを受け取り身構えた。
「ほら、お兄ちゃんの方に行ったよ」
ふみちゃんの叫ぶような声がした。
大志は、水面下で器用にターンを繰り返す出目金に薄紙をあて、そのまま出目金の動きに合わせて、腕を動かせた。
「そんなんじゃだめよ」
ふみちゃんは、大志と逆方向から同じ出目金に狙いをつけて、腕を振り下ろした。
二人の手と手がぶつかった。
「あーあ」
重なり、裂けた二つの輪の下に、黒い尾ひれが垣間見えた。
「罪滅ぼしに綿菓子おごるよ」
出目金を諦めた二人は、東西と南北の石畳が交差する辺りに差し掛かった。
それまでキョロキョロと周りを見回し、定まらなかったふみちゃんの視線が固定したのを大志は見て取った。
「本当」
回転釜にあいた細い孔から噴出してくる綿菓子が、割り箸に巻きつく様子を少しの間、二人で眺めた。
「このピンクのがいい」
出来立ての綿菓子を受け取ると、ふみちゃんは顔にくっつくぐらいに近づけた。
バーン、バーン前方の射的屋でコルクの弾が飛び出す威勢のいい音がした。
「はずれー」ふみちゃんが、小声でつぶやき綿菓子にかぶりついた。
三方の石段から次々に人が現れては境内に流れ込んできていた。
一番混みあっている本殿近くの屋台で二人は、喉を潤す為に足を止めた。
トリコロールカラーが鮮やかなパラソルの下、氷を浮かべた容器のなかで、周りの熱気とは別世界のように、涼しそうに横たわっているラムネを二人は選んだ。
店の男が、金属製の棒でラムネの栓を突く瞬間、ふみちゃんが身構えた。
そのままの姿勢で、勢いよく泡が溢れ出す瓶を素早く受け取ると、慌てて口をつけた。
「私ね、昔なかのビー玉が欲しくなって、お父さんに取ってもらったことがあるのよ。瓶を割ってね」
一息ついたふみちゃんが言った。
「そうなんだ」
「その時はどうしても欲しくなったのよ。ビー玉が」
「取ってあげようか。ビー玉」
大志はラムネの瓶を振って見せた。
「いいわよ」
微かに笑みを浮かべ、残りのラムネを一気に飲み干すふみちゃんの横で、大志は瓶を包み込んだ掌に、ひんやりとした心地よい感触を感じていた。
本殿の隣に設営されたテントの下で、少女達が手を振っていた。
「あっ、久美ちゃん達だ」
ふみちゃんも、それに応えて、両手を振り子のように宙に動かせた。
勢いよく振り返ったふみちゃんに、大志が頷くと、玉砂利の上にアップテンポの音を残し、ふみちゃんが駆け出していった。
「綺麗な衣装ねー」
着物を纏った久美ちゃんに、駆け寄りながら投げかけた声が、ふみちゃんの後ろ姿から届いてきた。
遠くに聞こえるうれしそうな声を後に、大志は大勢の人を乗せた石畳の上を本殿とは反対方向に歩き始めた。